2018年05月19日

『料理の四面体』玉村豊男

 タイムラインで強力に推されていた『料理の四面体』を読了。


 ちょっと検索してみたら、わりと最近テレビでも取り上げられたらしい。予想できるようにこのアイデアははレヴィ=ストロースの「料理の三角形」をもとにして発想されている。

料理の四面体 (中公文庫)
料理の四面体 (中公文庫)

 目次の作り方がよく考えられていて、前書きでは数多くの料理の経験から無意識のうちに一般法則をおぼろげに学んでいく、という帰納法的な展開から、法則を意識化することで一般原理からレシピを演繹していくという転換を訴える。
 かなり大上段にかまえた宣言であるが、つづいての一章は著者がアルジェリア南部の砂漠付近をふらついているところで呼び止めた青年たちが振るまってくれた「アルジェリア式羊肉シチュー」について描写される。一般原理どころか非常に特殊性の高い経験で、これだけ読んでも単体のエッセイだと思ってしまいそうだ。

 しかし料理の手順の鮮やかな描写は「美味しそう」という感想を引き出すためだけのものではなく、後で参照されるように注意深く書かれている。次の節では子羊の背肉ポンパドゥール風というフランス料理が示されて、これはアルジェリアの砂漠ほど遠くはなく、映画でそんなものも見たかなという気もするが、そんなに日常的な生活では見ないものだ(1980年刊行)。
 そしてフランス料理という文明と砂漠の道端で食べる野性味とが対照されつつ、一方では手順を分解すると共通の背骨があることが論じられる。ここから順列組み合わせの可能性が示唆されて、一度ブルゴーニュ風の牛肉煮込みのための複雑なレシピが提示された後に、材料や道具で大幅に(積極的に)制限された条件で、日本において食材や調味料を少しづつ変えながら再現するという試みが行われる。最終的に現出するのはなじみ深い「豚肉の生姜焼き」である。
 この流れを逆転させるのは上手くない。異質な風景を見る単純な驚きから始まり日常見慣れたものに戻るときに、そこで違うものでありながら同じものであるという論理による驚きがあるという構成である。「ひとつの同じ本質が、時とところに応じてさまざまに異なる姿を人に見せるだけのこと」と。

 3章の空揚げと天ぷらの区分で面白いのは、空揚げを何もつけないあるいは粉だけをつけて揚げたものと定義しつつ、天ぷらについては粉をなんらかの液体で溶いたものをつけて揚げるとしたうえで、この定義を採用するならば「てんぷらはひとりわが国の特産ではなく、ほとんど全地球市民に共有の財産」とみなしている点だ。先ほどの引用も踏まえつつ、ここでは、料理は特定の民族にしか理解・所有されないローカルな特殊性ではなく、普遍性の方に開かれているものであるを見ておきたい。

 また、料理が加熱を一つの基礎とすることは何度も述べられるのだけれど、2、3章を読むと直火(ロースト・グリル オーブンを用いる)で焙るとりあえずフランス風と鍋(と油)を通す中華風とに分けられると思うが、こうして図式化すると自分の料理の傾向が中華型に大きく寄っていることは改めて確認できた。キッチンにあるオーブンレンジは実質、電子レンジとしてしか使っていないのである。

 4章では酢醤油とドレッシングの比較から、醤油と油の互換性が訴えられる流れから、刺身をサラダの一種として捉える視点が表される。ややアクロバティックにも見えるがアボカドが刺身としてもサラダとしても成立するあたりヒントになりそうである。醤油なら刺身でドレッシングならサラダ、そして本書の規定では醤油とドレッシングに本質的な差異はない。
 5章ではチャルバ・デ・ブルタ(ルーマニアの牛の胃のスープ)を、これはここまで読んでいるともう分かってくるはずだ、日本のもつ煮に変換してくる。火による熱が水を通して具材に伝わるという運動が煮物・スープ・シチューなどを作る。一方では水(や油)の介在を極度に減らすことは焦がすや煎るとしてあらわれる。具材自身の水分を逃がさないように何らかの形で包み込むなら蒸すになる。熱源との間にある水分(油分)と具材との関係は、焦がす-煎る-蒸す-煮る(揚げる)という理解でいいだろうか。

 最終章では二つの名を持つ料理を、二つの異なる料理だと思い込んでしまうと、この二つの料理は永遠に異なる二つの料理でしかないとされ、一つのものだと考えることが出来るところから逆に数多のレパートリーがあらわれてくると玉村は言う。
 ここでついに料理の構造という大きな理論が打ち出されてくる。料理の基本の四要素として、火、空気、水、油を挙げて、その中でも火が決定的な役割を果たす頂点として存在し、それと具材に介在する空気・水・油が三角形の底面を構成し、具体的な料理はこの構造の中を動くというモデルが提示される。
 ということで、このモデルを知ることですぐに料理が出来るわけでもないが、いくつかのレパートリーをバラバラな知識として持っていて、しかしこの手順はそこだけ抜き出せば他の料理と通底するものがあるなと何となく予感していた人にはこのモデル認識は価値があるだろう。モデルの中に個別のレシピが位置付けられて、孤立したものではなく互換性を持つようになり、また構造を理解していれば、その表面上を移動して、未経験のレシピに挑戦することもある程度可能になるからである。もうレシピは孤独ではないのだ。
 もちろん実践として成功するかはまた別の問題であることは、本書でも注意されている。健闘を祈ります。



生のものと火を通したもの (神話論理 1)
生のものと火を通したもの (神話論理 1)
   
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posted by すける at 20:33 | Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月15日

『オクトーバー 物語ロシア革命 』チャイナ・ミエヴィル

『戦争は女の顔をしていない』読了から、勢いで遡る形で読みさしにしていたミエヴィル『オクトーバー』も読了。きっかけさえあれば一気にもっていかれるものだ。ロシア革命百周年を前に刊行・邦訳されたミエヴィルによるロシア革命史だが。シンポジウムの会場などで少しは売られたりしていたのであろうか?

オクトーバー : 物語ロシア革命 (単行本)
オクトーバー : 物語ロシア革命 (単行本)

 第二インターナショナルが世界大戦の前に屈服し、戦争に加担する各国社会主義者が戦争に加担する過程において革命的祖国敗北主義という激越な対応を打ち出すレーニンの主張が、兵士たちに蔓延する厭戦の情勢下で次第に支持を広げつつある中での二月革命の勃発、これが本書の起点となる。発足した臨時政府はしかし戦争から手を引くことが出来ず、この過程で旧軍の上層部の権力の復活を許し、多くの社会主義者たちも自分たちと労働者階級の力量を信じることが出来ずに明確に権力を取ることが出来ない(まずブルジョア革命が成立しているべきだから)。このような過程で帰国したレーニンが四月テーゼを打ち出し「すべての権力をソビエトへ」というスローガンをまとめ、その後さらに帰国してきたトロツキーが二重権力批判を明示して、臨時政府との対決と自らが権力を取るいう軸を作っていく。
 このような状況で軍司令官コルニーロフによる反乱が起こり、臨時政府首班のケレンスキーは対立するボルシェビキに助けを求めて急場を乗り切るが、前線に立ったボルシェビキが労働者との連携を深め、十月へなだれ込んでいく……。

 と、このように、読んでみれば予想以上に(左翼的に)納得のしやすい筆の運びで、やはりメインとなる役者はレーニンであるんだけど、あらためて示されると意外と面白かったのがカーメネフだった。名前の出るところではほぼ慎重派としてレーニンと反対の立場を貫いて、レーニンの果断・明敏な判断力と対照されて、その度にこき下ろされることのなるのだけれど、レーニンがいないところでメンシェビキたちからボルシェビキの過激な姿勢を批判されたときにはボリシェヴィキ全体を(一部を切り離さず)擁護し(p.201)、労働者階級による政府を動議する際に「政府発足の純粋に専門的な側面には……自分は興味がない」と(軽い調子で)爆弾的な言葉を告げたり(p.310)、執拗に反対し続けていた蜂起が、しかしひとたび現実に起これば街頭に立つ(p.360〜)という振る舞いを堅持する。
 これは普通は「にもかかわらず」というような表現のあとに来るような行動ではあるが、しかし革命家としてはごく当然の振る舞いであるだろう。運動の進展に身を投げることは、事態の進行への判断や評価とはまったく別のものだという確信をもっているか否か。そこが分かれるところだ。十月革命によってレーニンの方針の正しさが「証明」された時、二年後に我々がまだ権力を握っていたとしても、カーメネフはまだ二年以上は生き延びられないと言っているんだろうとレーニンはからかっているけれど、この時党内の対立者としてのカーメネフの価値はレーニンによって正当に測られていたいた気はする。

 無論、敗北者の側からも言いたいことはあろう。本書においてケレンスキーはバランスを取るだけのボナパルティズムと評され、一貫して道化であるけれど、「臨時政府」において、ケレンスキー以上の仕事が出来るのかというと疑問はあるはずだ。ケレンスキーが置かれた状況は、十月革命後も消えるわけではない。それをボリシェヴィキが乗り切る、その在り方ははたしてどのような結果を生んだのかは、苦いエピローグを読む上で考えざるをえないだろう。
 本書で、幾たびも首都の社会主義者たちが気弱になるところで明確な革命への意思を迷うことなく表してきたクロンシュタットの水兵たちに……。革命の過程の中にいたもの、その遠雷を聞いていたもの。まだ多くの言葉がある。

 そして、ミエヴィルが小説家としての顔を見せたのは、やはりエピローグでも触れられる「転轍手」について語られる場面だろう。

世界を揺るがした10日間 (光文社古典新訳文庫)
世界を揺るがした10日間 (光文社古典新訳文庫)

ロシア革命史〈1〉 (岩波文庫)
ロシア革命史〈1〉 (岩波文庫)

ロシアと歴史の転換点―ケレンスキー回顧録 (1975年)
ロシアと歴史の転換点―ケレンスキー回顧録 (1975年)

ロシア革命論 (1985年)
ロシア革命論 (1985年)

大杉栄全集〈第7巻〉ロシア革命論 (1963年)
大杉栄全集〈第7巻〉ロシア革命論 (1963年)

クロンシュタット1921
クロンシュタット1921

1917年・裏切られた革命―ロシア・アナキスト (1971年)
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ロシア革命――破局の8か月 (岩波新書)
ロシア革命――破局の8か月 (岩波新書)
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posted by すける at 23:30 | Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月28日

『三都物語』船戸与一

 ある種の脈絡をたどって船戸与一『三都物語』読了。明日はハチナイのラノベだ。冒険小説スタイルから外れた野球界を舞台にした小説なので、読者からは普段の作風からはやや毛色が違うと思われてるようだけど、日本を舞台に三本、間に台湾と韓国を挟みながらの五本の短編に、裏社会が絡みつつやがて近現代史が立ち上がってくるということで、これは実に船戸与一ではないですかね。

三都物語
三都物語

 野球を通じて東アジアにおける歴史的な傷痕、光州事件や霧社事件が立ち上がってくる時に、それをつなぐ環となる街は日本では東京じゃなくて横浜だというのは当然そうなるだろうという感覚が読者にあるかどうか。ネット書評ではそんなに芳しい評価ではないが、面白いというわたしの方を信じてほしい。とはいえ、これは平岡正明が解説書くべきだったのではないだろうか。
 船戸与一は光州事件を内戦と表現するのはまあ妥当で、比類するべき対象としてパリ・コミューンまでに及べるかという、その手前の時間で区切った『タクシー運転手』のまとめかたを上手いと見るか、困難を避けたと見るかというような評価軸のありかたが示されていることもぼんやりと意識しておいた方がいいだろう。また、光州事件の描写において、デモから市街戦にいたるまでの市民の組織化の過程に韓国のベトナム帰還兵を見るという、これも外せないところ。なぜこれほどまでに、市民の行動が迅速に組織化されたのかという意味は徴兵制と従軍の経験が一般化して市民社会に還元されたからだという認識がどのように貫徹されるかというところに船戸の形成してきた世界観が集約されている、そこを見なければならない。

 その上で、この短編集の登場人物たちは、年長者組はみななにがしかの失意にまみれていくわけだが、若い台湾人投手を日本人コーチは拾い上げて、成功するための筋道を作り、引退した在日韓国人投手は、スライダーを伝授して、未来への暗い展望を基礎としながらも少しだけ希望をつないでいくという作りになっている。


全記録光州蜂起―80年5月 虐殺と民衆抗争の十日間
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抗日霧社事件をめぐる人々―翻弄された台湾原住民の戦前、戦後 (史実シリーズ)
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国家と犯罪
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posted by すける at 09:04 | Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする