2018年03月27日

ケン・リュウ編『折りたたみ北京』

 ケン・リュウによって編まれた現代中国SFアンソロジーを読む。もともとはすべて中国語で書かれた短編であるが、まずケン・リュウによって選ばれ、英訳されたものを日本語にしているはずで、複数のフィルターを通ってからこのアンソロジーが手元にあるということを確認したい。

折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ 5036)
折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ 5036)

 まずは陳楸帆「鼠年」から。ショーケースとしての意味もあるアンソロジーの巻頭に、SFにとってなじみ深いテーマである「ネズミSF」を当てて、中国SFの水準を宣言する形にしてあるの気が利いている。『20世紀SF』シリーズの第1巻、40年代編がブラウンの「星ねずみ」だったこととの照応とかも考えたり。もちろん作品単体としての質も高く、「ネズミSFアンソロジー」があるなら、参加する資格は大いにある。

 夏笳はまず「百鬼夜行街」の語り口に感心したところで、「龍馬夜行」の冒頭には一瞬「雰囲気だけか」という疑念を抱いたのだけれどすぐに吹き飛ばされた。様々な対立項や境界の間にあったり、行ったり来たりするものとして、伝承と技術の融け合った存在である龍馬や同行者の蝙蝠といった存在が、「混血の被造物」の世界の旅を通じて、神話とSFの混じり合うその芸術の意味を漢詩の伝統にも結びつけるという展開で、これもある意味では人間の滅びた世界のロボットという既知のテーマを見事に処理している。ある時期のゼラズニイをも思い起こさせる作風でニューウェーブと言われても信じてしまいそうだ。

 郝景芳「見えない惑星」は、多く指摘されるとおりのカルヴィーノ的な架空の惑星奇譚だが、ここではお話を交換する意味が語られる。自然に「龍馬夜行」での龍馬と蝙蝠の話を思い出すことにもなるだろう。表題作「折りたたみ北京」は、奇想であると同時に、ほとんどモノとして切り分けられる「時間」の分配の根拠が階級分化によっている。「時間」を障壁としたゲーテッドシティみたいなもので、時間の意味が社会階層によって変わりつつある感覚が描かれており、扱い方は違うけれども陳楸帆の「麗江の魚」とも比べたくなる。
 程婧波「蛍火の墓」は、なんとなく80年代のバンド、マリコ with CUTEの楽曲「氷河期」を思い出させるものがある。

 劉慈欣の「円」は、秦王政と「刺客列伝」の人、荊軻が数を力に人力で円周率の計算を試みて宇宙の本質に迫るという奇想で、ひさしぶりにルビの使い方がかっこいいというか、当然の振りがなではあるのだけれど、これが春秋戦国時代の末期に行われていると思うと笑いをこらえることが出来ない。短編として十分以上に魅力のある作品だが、これは翻訳作品としてはじめてヒューゴー賞を取った長編『三体』の一部を改作したものということで、わかった『三体』を邦訳するのに最高のプロモーションだよ、早く出してくれと言うしかない。
 もう一編「神様の介護係」は非常にに卑近な生活感の描写とクラーク=小松左京的ビジョンを短いページ数の中に同居させる作品で、人間と神様のケンカ別れの発端が「即席麺事件」であるところに笑いを漏らしているその数ページ後には宇宙規模の対立と外宇宙への進出が視野に入ってくるという怪作だ。小松左京的ビジョンはこの前読み返した高遠るい『ミカるんX』でも採用されていた(こちらは昭和ウルトラシリーズ後期作品に小松左京をミックスした)のだけれど、こうした世界観は結構強く引き継がれているものなのだ。

 序文ではケン・リュウが中国のSFを読むという経験において、物語を即座に中国の政治や社会情勢に引き付けて読むという誘惑に耐えるように訴えていて、それぞれの作品はより広く普遍的な射程を備えているとする。このような読み方のセンスの問題はとりわけ『1984年』について書かせると分かってしまうものではあるのだけれど、たとえば最後にケン・リュウ自身の短編「月へ」のような作品が入っていてもよいのではないかと思った。

 収録作品すべて、読後感というものを手ごたえを持って探ることが出来る作品が揃っており、それぞれの作家について継続した紹介が望まれる。アンソロジーの力を見せてくれるすばらしい一冊だった。

紙の動物園 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)
紙の動物園 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

史記列伝 2 (岩波文庫 青 214-2)
史記列伝 2 (岩波文庫 青 214-2)

ミカるんX 8 (チャンピオンREDコミックス)
ミカるんX 8 (チャンピオンREDコミックス)
web拍手 by FC2
posted by すける at 22:23 | Comment(0) | SF | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月14日

ジョージ・A・ロメロ 、ジョナサン・メイベリー編著『ナイツ・オブ・ザ・リビングデッド』〈死者の章〉〈生者の章〉

 ジョージ・A・ロメロの、もはや説明不要の歴史的傑作『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』を直接的に題材にしたアンソロジー。竹書房文庫はここのところ翻訳でいい仕事をしてくれている。

NIGHTS OF THE LIVING DEAD ナイツ・オブ・ザ・リビングデッド 死者の章 (竹書房文庫)

 基本的に世界観は一致させながらゾンビ(という表記で書かせてもらおう)と世界についての物語が描かれていて、まずはロメロによる「身元不明遺体」が注目されるところだが、多彩な作家陣の起用に併せて様々な要素が盛り込まれており、超能力者(「ファスト・エントリー」ジェイ・ボナンジンガ)や幽霊(「発見されたノート」ブライアン・キーン)といった隣接するようなジャンルとのミックスや、宇宙ステーション内部で起こったゾンビ騒動(「軌道消滅」デイヴィッド・ウェリントン)などのシチュエーションで読ませてくれる。
 とりわけ、オリジナルの脚本家であるジョン・A・ルッソによる、タイトルからもわかる直接の後日談「その翌日」には、作品内の固有名詞が使われており興味深いものだろう。また、アイザック・マリオン「卓上の少女」は、映画ではほとんど描かれることのなかった少女の視点から事件を描いており、ただの被害者に過ぎなかった市登場人物に対してこのようなアプローチが可能になったこともジャンルと作品そのものが積み上げた厚みであろう。ジョナサン・メイベリー「孤高のガンマン」は自身のシリーズ作品を『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の舞台に近づけたもので、ファン上がりの作家の冥利に尽きるというか、こうした「サークル」をホラー作品がとりわけ形成しやすいことにも考えが飛んだりもする。

 一方ではメイベリー自身がアンソロジーの冒頭で告げるように、作品群のいくつかは「時代設定は大雑把」というように、原典の時代とは違うだろうというようなガジェットも散見するし、その筆頭が何よりもロメロの作品である。とはいえ、オリジナルの映画において勇敢に闘いながら無残な最期を迎える主人公ベンを演じたデュアン・ジョーンズの起用は彼の演技力が群を抜いていた上での偶然であり、本来脚本上では主人公は白人のはずだったとロメロは告白しているのだが、当初の脚本上では粗暴な肉体労働者だった主人公にデュアン・ジョーンズが与えた意志的で抑制的な演技は、エンターテイメントのただなかに黒人と白人との社会的なきしみを映し出していることはやはり否定しようもなく、そうしたことが偶然に起こることがむしろ必然的であり、この映画が持つドキュメンタリー的な雰囲気は68年の分化的な革命を構成する一部だったとあらためて思わざるを得ないのだった。


NIGHTS OF THE LIVING DEAD ナイツ・オブ・ザ・リビングデッド 生者の章 (竹書房文庫)


ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド コレクターズBOX [DVD]
ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド コレクターズBOX [DVD]
web拍手 by FC2
posted by すける at 16:16 | Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月06日

菊池桃子『午後には陽のあたる場所』

 少し前、TBSラジオ『伊集院光とらじおと』で、ゲストに招かれた菊池桃子のトークが非常に興味深かったので、著書も読んでみる。

午後には陽のあたる場所
午後には陽のあたる場所

 まず、第一章では自分についての「自身の無さ」と祖母からの肯定について書かれているのだけれども、後の方まで読むと、これが私的な語りに終わるものではなく全体に関わるイントロとして置かれているものであることが分かる。
 本書の主要なテーマはやはり長女に乳児期の脳梗塞からの後遺症があることが判明してからの向き合い方にあると思われるが、ここで自分の子供時代と、自分が子供を持つ親になった時代とが互いに参照されてから、一般的な議論を展開していく支点とするという方法が示されている。先述のラジオのトークでもその語り口は特徴的であり、個人的な経験を、普遍的な制度の話と絡めたり切り分けたりという距離感が適切だった。
 娘の小学校入学に消極的な学校側から、家庭教師をつけるという代案を示された時の感情が、費用のかかる家庭教師の利用という条件に対して、「お金のない我が家は対応出来ない」でも「お金のある我が家は、多少大変だがなんとかなる(著者は経済的条件だけ見ればこちら側だろう)」でもなく、義務教育の期間に家庭の資産状況で教育を受ける権利がそこなわれること一般に対する怒りであることからも、菊池がつねに普遍的な視点を意識していることが分かる。

 また、後遺症があることが判明した時に、「インターネットで論文の専門サイトにアクセスして、専門性の高い言葉のすべては理解できないまでも、最新の研究の情報も探ろうと」したとさらりと書かれているけれど、これはおそらくCiNiiだろうし、病気等について「ネットで調べる」という時にここを経由して情報に当たり、典拠の怪しい「医療情報サイト」については斥けるということは、なかなか出来ないことで、「調べる」ということについて適性があり、非常に訓練されている感じを受ける。のちに「普通教育と特別支援教育との違いがキャリア形成にいかに影響するのか」をテーマに法政大学大学院に進学することになるというが、それ以前にこういう手法を持っていたことはわりと驚いた。

 ということで、以前、1億総活躍国民会議に民間議員として起用された際も、そもそもその定義について疑義を示すなどの見識を示したことが話題になったこともあったが、決してフロックではない、まっとうな学問の知見と方法を踏まえたものであったことが納得できた一冊だった。


(追記)それにしても伊集院光(あるいは大槻ケンヂ)の世代にとって菊池桃子と言えばラ・ムーや『テラ戦士ΨBOY 』といったネタ感の強い存在だったわけで、いまこういう文章を書くことになるとは中学生のころにはなかなか想像できませんでした。
web拍手 by FC2
posted by すける at 21:49 | Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする