2019年05月20日

『ゼイリブ』『遊星からの物体X』ジョン・カーペンター監督

 テレビやレンタルなどで見ているものの、やはり劇場で見たいということで早稲田松竹の二本立て。



 『ゼイリブ』はSF的社会批判の強みと弱みを等分に持ってるなとずっと思っていて、レーガン政権末期のアメリカで放たれた広告・宣伝を通じた消費強制社会批判は現在に至るまでの射程を持っている一方で、カーペンターが2017年にもなって「(これは暴走する資本主義への批判であって)ユダヤ人が世界を支配しているという虚偽の中傷ではない」とわざわざ言わなければならないという側面がある。

 ユダヤ人の支配などとは馬鹿げたつまらない作品の読み方であるけれども、こうした低水準の感想は日本でも「マスコミに入り込んだ○○人の陰謀について描いているのでは」などという形で見られないでもなく、一定の数がいることも確認できる。そして、こうした監督を嘆かせるような読み手の存在は、当然それ自身の貧しい認識力の限界の問題である一方で、「真実を暴くサングラス」や「人間の間に入り込んだ敵対的な異種族」というSF的に便利な道具立てが呼び起こしたという一端の責任もあるのではないかと。

 ただサングラスをめぐる、いわゆる「プロレス」シーンの長さについては、わたしは割と肯定的で、というかわたしたちはずっとある意味ではこのサングラスをかけろ、かけない、いやこのサングラスのほうが正しいのだという水準のもみ合いを延々としているようなものだからだ。このあたりについては「『ゼイリブ』に描かれる 同時代からの引喩について」上石田麗子(『國學院雑誌』115巻 11号)に、まとまった文章がある。

『遊星からの物体X』については、グロテスクなシーンの強烈さの一方では、被害者がモノに同化される瞬間の描写は、決して行われないというあたりの抑制が、ラストシーンを巡っていまに至る議論を支えているなと興味深い。あと、物販でJ&Bのボトルあったら、帰りに買ってしまうよなーという。まあ、上映中に飲まれたらたまらないだろうか。あ、会場では『ジョン・カーペンター読本』買えました。

 それにしても、『ゼイリブ』(レイ・ネルソン「朝の八時」)、『遊星からの物体X』(ジョン・W・キャンベル「影が行く」)、『光る眼』(ジョン・ウィンダム『呪われた村』)とカーペンターのSFものの原案チョイスの方向性は一貫してる。いっそ『超生命ヴァイトン』とかどうだろうかという。







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posted by すける at 12:25 | Comment(0) | 映画・演劇・ドラマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月16日

『ザ・フォーリナー 復讐者』マーティン・キャンベル監督

 ジャッキーの『ザ・フォーリナー 復讐者』見てきました。制作の話を聞いたときは、日本公開もすぐだろうなんて思っていたんですが、実際には2年近くたってしまいました。それでも劇場で見れたんだからよしとしましょう。


 アイルランドをめぐる政治的駆け引きがあるために、ある程度穏健派と強硬派の指導力争いみたいなことを知っていないと入り込むのに若干苦労するかもしれませんが、基本線は復讐のための相手を知ろうとするジャッキーが、目を付けた相手に執念深くからみ続けるという流れ。おもな対象となるのはボンド俳優であるピアース・ブロスナンで、ボンド対ジャッキーのバトルも期待されますが、今回は相手が悪すぎた。目の死んだジャッキー・チェンが、森の中や張り付いた天井から襲ってくるという、いささか襲われるほうが気の毒にならないでもない怖さ。

「ビルから外部への脱出」「森の中」「室内」の三つの場面でのバトルがあるんだけれど、元特殊部隊員としてのキャラ設定に起因するアクションを重視したという監督の発言がある一方で、結構ジャッキースタイルのアクションも織り込まれているというバランス感がありました。脱出シーンでは、ダイナミックな縦の移動(落下)シーンを多用し、格闘でも手近なものを利用する動きを見せたり、今作ではジャッキーはアクションシーンに関する最終的な決定権は持っていなかったようですが(HPではスタント・コーディネーターはグレッグ・パウエルとなっている)、ジャッキーのアクションの見せ方を分かってる感じ。修行(むしろリハビリか)シーンとかのサービス入りですよ。


 腰から下もしっかり動けていて、ジャッキー健在だと嬉しくなりますね。DVD化で特典映像とか付くのもも楽しみですが、これはやっぱり劇場で見ていただきたい。

 やや設定は変わっているようですが、原作も。


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2019年03月15日

『史記世家』司馬遷

『史記』列伝を読み終えることができたので、世家に移る。自作年表を作りながらだったので、ずいぶん時間がかかったが、とはいえ、世家はある程度編年体的な性格があるので、春秋時代の動きはだいたい頭に入ってきた。



『史記世家』においては、なぜ「呉太伯世家」が巻頭に来るのか、比較的辺境で、中原からは重要度が低いとも言える呉が、という疑問があったのだけれども、「周本紀」を読んである程度納得できたというか、周文王の父である季歴に国を譲った太伯・虞仲の兄の建てた呉で、やはり兄弟間で国を譲ろうとしあう季札のエピソードが直線的ではないが反復を示して、周の血縁である世家春秋編の性格を示しつつ、その季札が、外交の過程で各国の音楽を聴くことを通じて同時代の政情を評したり、戦国時代の開幕となる晋の崩壊を告げる預言者的な役回りを演じている。これが「呉世家」の巻頭における目次としての役割だと思うと腑に落ちる。「呉世家」伍子胥だけの話ではないと。




「趙世家」で武霊王の胡服採用に司馬遷が紙幅を割いているのはけっこう重要で、春秋時代の特徴としてしばしば言及される「騎兵はいない、馬はあくまで戦車を引く」という時代が終わって、騎馬から直接弓を引く機動力重視の戦争スタイルが採用されていくようになる。春秋と戦国の時代区分については、いくつか基準があるけれど、戦争の性格の変化も一つの基準だろう。趙は異民族と境を接していたことで変化できたんだけど、戦国時代に秦が強勢を誇ったのは、他の戦国の国々を東に置いていたと同時に、西の国境を匈奴と争っていた にもかかわらず/だからこそ かとも考える。
 このスタイルの変化は「春秋に義戦なし」と評されつつも、戦後処理に甘いところもあった春秋から苛烈な戦国時代への変化との関連も想起させられるだろう。

 「魏世家」での信陵君の発言「秦は夷狄と同じ風俗」は秦を貶める意図のものだけれど、同時に秦の強さを暗示しているような気もする。匈奴の風俗と法家的改革。魏も戦国時代を告げる新しいプレイヤーではあったのだけれど。


 構成としてみてみると、第一「呉世家」から第一二「鄭世家」までが春秋期から戦国末期までのスパンを持つ国であり、一三から一六まで、趙魏韓に田斉と戦国期に端を発する国を扱う。ここからは武田泰淳の受け売り感が強くなるが「孔子世家」が春秋戦国の国の枠組みを越えた意味での思想を表して、構成的には異質なものとして差しはさまれ、また「陳涉世家」も、周につらなる王族としてのなんらかの起源をもつ春秋の「世家」世界像に対して「王侯将相寧んぞ種あらんや」という形で攻撃を加える。陳勝が列伝でなく世家に立てられる理由は多分ここにある。このあとに入るのが「外戚世家」という皮肉も強烈だ。

 このあとの世家は、もはや群雄という感じはなくなり、漢の忠臣、代々の功臣という立ち位置でのみ永らえるという形である。統一秦への反乱には、戦国の裔も少なからず参与していたけれど、こうした反秦勢力が秦以前の政体に戻れるわけではなく、呉楚七国の乱の鎮圧あたりでこの欲望は一度潰える。
 ただ、「留候世家」に見られる、秦に滅ぼされた戦国各国の子孫を王に迎えて、劉邦はその盟主として楚と対峙するという酈食其の策が、最終的に張良の激しい論難にあいひっくり返されるあたりのくだりは、まったくの愚策というより、今後の世界像についての対立と思われる。酈食其の策が中途半端にあたり、歴史の針を逆に戻すということはありえたはずであり、そうした群雄諸国という世界こそが想起しうる世界像だという人々は必ずしも少なくなかっただろう。こうした世界像が一度提起される必要はあったし、そうした処理を張良のような人物がひっくり返すというのが歴史の転換点というものだろうか。

 こうしたことが見えてくると、後漢において曹操が魏王になることの危険性も少し分かってくるかもしれない。曹操本人の問題もありつつ、こんなことを言いだすのが他にも出てきたらどうするんだという。

 そういうところまで見えてきて、やっと「秦本紀」が射程に入ってきた気がする。



タグ:春秋時代
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posted by すける at 20:59 | Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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