2018年07月14日

『リバースエッジ 大川端探偵社』ひじかた憂峰原作 たなか亜希夫作画

 狩撫麻礼が無くなったときのSNSでの反応は、連載の次回が楽しみに待たれている現役の作家として亡くなったんだなということを教えてくれた。そんなわけで、当該の作品『リバースエッジ 大川端探偵社』を遅ればせながらに読み、あわせて大根仁により深夜ドラマ化されていたものをDVDで見てみた。

リバースエッジ 大川端探偵社 1

 設定が秀逸である。隅田川沿いのビルに入る探偵事務所の意味は、川という境に立つ建物として、こちら側とあちら側との合間にあることを暗喩している。依頼者はしばしば、事務所を訪れたきっかけとしてたまたま水上バスから見えたからと語るのだが、これによっても依頼者がすでに不安定でこちらとあちらの移行状態にあるか、あちら側を覗き込んでいるような形になっていることが示されている。こうした川や船の象徴性についてはダニエル・ストラック『近代文学の橋 風景描写における隠喩的解釈の可能性』にあたってもらいたい。
 ともあれ、探偵と依頼者との関係はこうした舞台設定によってある程度自動的に定まることになり、さすがにベテラン原作者の力量と感じさせられる。代表作である『迷走王 ボーダー』においてしばしばあちら側とこちら側の世界というものが言及されるが、この作品ではそこに地理的な暗喩が常に組み込まれているのだ。

 こうした設定によって、人情譚や現代社会の一面といった話が、連載の過程に乗ってくるわけで、おもに浅草を舞台としながら戦後、高度成長期、バブル、現在と、時代の流れに応じて失われた商店街等の生活の風景と、かろうじて残っている人々の記憶といったものが扱われるエピソードも多い。このタイプの話が作品のオフィシャルなイメージを形成するだろう。
 一方で、おたくの性愛や、ひきこもりの自立に関するエピソードなどはピントの外れていると思われる話が多く、むしろ今時こういう外れかたが現役の連載マンガで扱われるのは珍しいと言えるのだが、それはそれで構わないというか、なんにでも理解を示されるというのもいい加減うんざりだという気もしているのだ。

 映像作品では、村木(オダギリジョー)に予知夢の能力らしきものを与えていて、原作でも村木が夢を見るシーンはたまにあるのだが、それはエピローグ的な扱いのもので、ドラマでは逆に冒頭に夢を見るシーンを持ってきている。冒頭に村木の夢、エピローグに所長(石橋蓮司)の解釈という構成が各回を通じて定まっており、これもテレビドラマのシリーズとして有効なことだろう。この辺りは大根仁インタビューも参照されたい。(ドラマのものさし・特別編 Special Interview 川のほとりに、転がる人生。 ドラマ24『リバースエッジ 大川端探偵社』 脚本・演出 大根仁)
 ドラマは、ゲストのキャスティングも納得させるものであり、とりわけ第三話「ある結婚」の内田慈、第十一話「トップランナー」山田真歩など出色である。個別に挙げられないがその他の回も、メインキャラクター以外の人物についても見事に原作の雰囲気を拾っており、丁寧な仕事であると信用をおくことができるものだ。たなか亜希夫の作画は、とりわけ女性描写が優れており、不安定な環境ではたらきつつ生活している女の不安や威厳というものをよく捉えていて、演じる側にとってもやりがいがあるものだろう。
 個人的には「もらい乳」で秋山実希を久しぶりに見れたことが収穫だった。でもこの話、原作でも人情譚としてトップクラスのものだと思うんだけど、ドラマでは唯一30分二部構成での扱いであり、もう一つの話は原作中もっとも変な話である「決闘、バズーカ対鎖鎌(+ブーメラン)」なのである。これがバランス感覚というものか。
 そして、原作において、最高のエピソードと言っていいだろう「女護ヶ島伝説」はなぜか映像化されていないのだが、これは何かの形でやるために取っておいたのではないか……と期待しているのだけれど、どうにかならないだろうか。

ドラマ24『リバースエッジ 大川端探偵社』





リバース エッジ 大川端探偵社 DVD BOX(5枚組)
リバース エッジ 大川端探偵社 DVD BOX(5枚組)

リバースエッジ 大川端探偵社 9
リバースエッジ 大川端探偵社 9



近代文学の橋   ―風景描写における隠喩的解釈の可能性―
近代文学の橋 ―風景描写における隠喩的解釈の可能性―


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2018年07月01日

『『プリズナーNo.6』完全読本』尾之上浩司編

 イギリスのテレビドラマシリーズ『プリズナーNo.6』の読本が刊行された。作品の高名さに比して、日本ではまとまった論考として刊行されたものはこれまでなかったということで、わたしも水準以上に論じられたものでは狩々博士『ドグラ・マグラの夢』10章「囚人第七号」や、安田均「一九八四年にはプリズナーを」(『神話製作機械論』所収)くらいしか読んでいなかったので、これは嬉しい。

『プリズナーNo.6』完全読本
『プリズナーNo.6』完全読本


 本書を通して読むと、主演であるパトリック・マクグーハンがそれまでに演じてきたジョン・ドレイクという「スパイもの」の縦の軸と、カウンターカルチャーと併走する実験的な表現という横の軸の交点としての『プリズナーNo.6』像が見えてくる。縦軸についてはほとんど知識が無かったので、読んでみてそういうことなのかと感心した。もちろん、縦の軸はこれだけではなく、チェスタートン『木曜日の男』に遡る形而上学的なスパイをめぐる議論や、管理社会ディストピアといった系譜も参照されている。

 SFとしてはやはりトマス・M・ディッシュによるノベライズということになるが、これもカウンターカルチャーの中のひとつとしてのニューウェーブに関わることで、尾之上浩司や岡和田晃によって触れられている。とりわけ岡和田はディッシュの代表作『キャンプ・コンセントレーション』や、やはりニューウェーブの作家、J・G・バラード『コンクリートの島』(『コンクリート・アイランド』)に絡めながら論じて、『プリズナーNo.6』の同時代性とそれを越える普遍的な射程について明らかにしている。

 全話紹介のコーナーでは、個別のエピソードのチェックポイントなども示されており、とりわけ連続のテレビドラマという制約からくる制作過程についての解説も面白い。第一話の脚本を複数の脚本家に見せて執筆依頼を出したため、実際の話数とはまた別に、並列的な「第二話」としての性格をもつ話が多いことにも注意を払っておくべきだろう。

 プリズナーの未訳ノベライズ作品紹介として、ハンク・スタインという人の長編が抜粋されており、冒頭カーステレオから`White Rabbit`が流れてくる場面に「1967年にジェファーソン・エアプレインが発表した曲」と註がついているのが、個人的には興味深い。`White Rabbit`はドラッグを暗喩した曲であり、カウンターカルチャーの時代を想起させる代表的な曲としてしばしば映画などで使用されているものだ。ここでの使用法も、そうした文脈を共有しているものと思われるが、まったく本質的な話ではないけれど`White Rabbit`に関して、この説明は間違っていない一方で、JA以前の1966年に Great Society というバンドがライブで持ち曲としており、それをボーカル、グレイス・スリックがJAに持ち込んだという経緯もある。
 その成功を受けて68年には`White Rabbit`も収録した Great Society のライブ盤が発売されており、監視社会を扱った作品には、 Great Society 版で流れている可能性もあるとしたら、ちょっと面白いとは思う。

Grace Slick & The Great Society
Grace Slick & The Great Society

 ただし、著者はインタビューの中でジェファーソン・エアプレインとグレイトフル・デッドのフィルモアでのコンサートに言及したりしていて、実際にに流れているのはやっぱり Jefferson Airplane のものだろう。
 ちょっと脇道にそれたが、優れた作品が孤立したものではなく、様々な作家、作品との関わりとのなかで読み解かれていくものであることを示した本書は、『プリズナーNo.6』を見るときに手元に置いておきたいものとなることは間違いないだろう。


プリズナーNo.6 Blu-ray Collecter's BOX(5枚組)
プリズナーNo.6 Blu-ray Collecter's BOX(5枚組)

プリズナー (ハヤカワ文庫 SF 233)
プリズナー (ハヤカワ文庫 SF 233)

キャンプ・コンセントレーション (サンリオSF文庫)
キャンプ・コンセントレーション (サンリオSF文庫)

コンクリート・アイランド
コンクリート・アイランド


ドグラ・マグラの夢―覚醒する夢野久作 (1971年)
ドグラ・マグラの夢―覚醒する夢野久作 (1971年)

神話製作機械論
神話製作機械論


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2018年05月26日

『泣き虫弱虫諸葛孔明』酒見賢一

 暇になると三国志ものをめくったりするのだけれど、物語としての三国志については三十年くらい前から前からまったく更新されていないのである。そんな頃には、吉川英治、柴錬、陳舜臣、演義くらい読んでおけば、まあよかったから楽ちんだったのが、いまはずいぶん新しく書かれている。そんなわけで、酒見賢一に手を出してみた。とりあえず、第一部、弐部から。こちらも『墨攻』以来四半世紀ぶりくらいなのか。

泣き虫弱虫諸葛孔明〈第1部〉 (文春文庫)
泣き虫弱虫諸葛孔明〈第1部〉 (文春文庫)

 タイトルからして当然視点は諸葛亮を中心に置かれることになるわけで、まずは若き諸葛亮のコネ形成と就活前の自己アピールみたいなものを見ることになる。コネクションについては姉が龐山民に嫁いだことから襄陽の名士龐徳公と連なり、自身は黄承彦の娘と結婚する。ここから黄家を通じて劉表の重臣で、『三国志演義』トップクラスの嫌われ者蔡瑁の一族にも繋がることになる。弐部でちらりと劉備がこの話題を振って、諸葛亮が興味無げに返答するシーンがさらりと描かれていることを見たい。さらに本書では弟の諸葛均は習氏と婚姻するなど(これは異説もあるようだ)、世に出る前から諸葛亮が姻戚関係によって荊州の豪族と繋がっている姿に多く筆を割かれている。こうした諸葛亮は『三国志考証学』でも描かれていた。自己アピールは臥龍伝説であり、その形成には自信が噛んでいたというものだ。

 こんな諸葛亮に新野をあてがわれた劉備がからんで三顧の礼、隆中対、出蘆までで一冊。これだけだと派手さが無いのだが、前振り軍師としての徐庶の奮闘が美味しかった。数で圧倒的に勝る曹仁軍の襲撃に対する徐庶の軍師としての初起用で、劉備が過剰な期待をせず「いつも負けてるんだが、今回は軍師に従って負けてみる戦も初めて経験してみてもいいか」くらいの胆力を見せるのがそれらしい。こうなると長坂での負けっぷりも見てみたくなるではないかということで第弐部へ。


 袁紹の残党や烏桓を平らげ、ついに荊州に進軍してきた曹操に対して「華々しく一戦して命より名を惜しんだ感じが漂い、惨敗して逃げているにもかかわらずなんとなく勝ったように見え、なおかつ民衆の人望も失わず、希望の新天地に思いを馳せる」話がうますぎる、我儘な条件を満たす策を諸葛亮がさずけるが、その表現は「われらはゆっくりと壊滅する」「わが軍が激闘しつつ滅びてゆくところ」「九死に加えてなお一死」という凄まじいものである。こんな負け方は劉備軍にしか出来まい。
 樊城から撤退前の劉備、兵卒民衆あわせて二十万を前に悠々と「老人老女、壮丁、女、子供、農夫、商人、下級兵士、こじきまでをも、ゆっくりと視界に入れ、一人一人に視線を合わせるかのように見渡した」たったこれだけのことを代償として、民衆は敗走する劉備についていく。こんな負け方は劉備軍にしか出来まい。

 劉備の負けっぷりのよさとは別に、長坂敗走時に切り離されてから再び合流するまでの関羽の部隊の移動ルートの分からなさを詳しく説いている点も注目される。演義でも正史でも江陵を目的地としているのになぜか関羽は本体に漢津で合流する。よく取っても正史は記述を脱落させており、最初の目的をどうしたのかが分かりづらいのは、自分で経緯をまとめようとすると分かるだろう。酒見は「最も資料的価値の低い」という三国志平話では関羽を漢津で合流させないという、当初の指示を考えるとある意味整合性の高い展開になっていることを指摘するが(平話はふつう荒唐無稽だと言われるが、時々妙に律儀にこういうことをする)、しかし酒見はこれは取らず、最終的には演義に近いものだが別の解を出す(ちなみにわたしの思いつきは「関羽は慣れない土地で迷子になって本来の目的地にたどり着けなかった」というものだが、自分でも採用する気になれない)。いずれにしても、この問題が困りものであることが明示されたのはよいことだ。
 ちなみにこの巻では黄祖が滅ぼされているが、江夏太守の座が黄祖から劉gに移ったことは敗走時の劉備に対する援軍の存在だけでなく、その前段の状況で呉の外交政策にも影響を及ぼしている。魯粛は劉表の弔問にかこつけてとりあえず江夏へ向かったが、孫堅の仇である黄祖が存命のままで江夏を押さえていたら、荊州との関係回復を目指すという方針は抵抗が強かったのではないだろうか黄祖という人、三国志でも器の小さい人上位ランカーと認識されてると思うが、孫家三代と二十年くらい争いながら江夏を治めていたわけで、改めて考えると無能なわけはないとも。わりと地味に三国志の転換点に絡んでいるのではないか。なお長坂の敗走には秘密外交を一任された魯粛も巻き込まれて、たいていの『三国志』では江夏に落ち着いてからとするが本書では正史魯粛伝によって長坂で劉備・諸葛亮との面会の記述を取る。魯粛もけっこうなおもしろ人間なので、これはそうあるべきだろう。

 酒見は正史の簡素な記述に注を付した裴松之について、資料を無理やり多数引用、注をしたのにかえって疑惑が膨れ上がる面白いに決まってるやり方としているが、ある意味ではわたしたちはずっと裴松之のやったことを重ねるように三国志を面白がっているのであって、この本もその一つであるだろう。裴松之の注は、最初は文字の解説など手堅いやり方で行くつもりだったようだが、次第に人物像を膨らませるエピソードや異説との比較、史料批判的な側面に踏み込み、出所からしてあやしげなエピソードを多くの字数を費やして取り上げたかと思うと、これはこんなにバカバカしい話だと論証したりするのだから、やってる方だって楽しくて仕方なかったろうと思う。



泣き虫弱虫諸葛孔明〈第2部〉 (文春文庫)
泣き虫弱虫諸葛孔明〈第2部〉 (文春文庫)

墨攻 (新潮文庫)
墨攻 (新潮文庫)

三国志考証学
三国志考証学
タグ:三国志
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posted by すける at 09:46 | Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする