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2012年03月13日

『ぼくの大好きな青髭』庄司薫

 科学技術の粋を集めてアポロを月に飛ばそうとしていた世界に、やわらかい葦舟で海を渡る世界観を提示することで対峙しようとした青年たちの物語。
ぼくの大好きな青髭 (中公文庫)
ぼくの大好きな青髭 (中公文庫)

 しかし、そのような情熱は、当時ですらすでに退潮期に入っていることは明らかだった。

 高校の友人であり、コミューンの成員であった高橋が自殺未遂を起こしたことをきっかけに、薫くんは彼の関わろうとした世界の周辺をうろつくことになるが、彼の前には絶対的な価値を探求し、他者を救うような情熱に水をかけ、そらし、「救済者志願」を破綻の淵から救い出そうとする「十字架回収委員会」や、さらに彼らの「救済者救済」の行動をも、観察の対象としてみなす「十字架回収委員会研究会」といった青年群があらわれる。

 だからといって、自分たち以外の青年を観察するという集団が、観察者としての自己意識の精緻化によって、観察される集団に対して上位ににあるというわけではない。

 情熱を対象化していく流れとしては「十字架回収委員会」の上に「十字架回収委員会研究会」があるわけだけれども、作品内で薫くんの前に登場する順番としては「十字架回収委員会研究会」が冒頭にあらわれ、終盤に「十字架回収委員会」が顔を出すという構成になっているあたりが巧妙だ。

 集団があらわれる順番は、ストーリーを聞いたときに集団の行動を相対化していくベクトルと同じ順で来るだろうという、直感的に想像されるものとは逆になっている。
対象を相対化することによって、そのような操作をおこなうことが出来る自己を絶対化するような詐術というものは、構成によって無効化されていて、そもそも当人たちすらそのことに充分以上に自覚的であることが示されている。


 だから「十字架回収委員会研究会」は、退場の際に自分たちが観察者として振舞うことへの弁明として、以下のような言葉を述べなければならない。

「最大の欠点は、たとえばこの店に集まっているような、恐らくは新しく来るべき感受性に情熱を賭けているような同世代を見ると、ついクリティックになってしまうところでしょうけど、これも敵意というよりは羨望の余りだからたいして悪気はありません……。」
「十字架回収にしてもなんにしても、要するにぼくたちをどこか不安にするような動きを追いかけて、とにかく一つの解釈を与えて安心しようとする。」(P.77)


 一方、彼らに観察されている「十字架回収委員会」も、そのような不毛な関係性に関してはすでに認識している。 
「そうして、そういった派生目的で辛うじて充実感を確保するわれわれとか、そのきみの言うわれわれを研究するグループとかが、花見酒みたいにグルグルお互いのあとを追いかけ廻すことになるわけです。」(P.212)

 そのような観察者の対象たるグループの一員であるシヌヘですら、情熱や夢といったものがいちど具体的な共同体の運営というかたちで進展すれば、分業制が生まれ、現実の中に自然に解体していくことをあらかじめ認識している。


 いくつかのエピソードは社会風俗的に受け取られてしまう危険があるけれども、青年が情熱を持つことの現代的な困難さということについては、いまだにこの小説のフレームの中で動いていると言えるだろう。

 観察者の不毛に居直るのでもなく、情熱を短期に暴発させて、敗北するのでもない長期戦を基本戦略にし続けてきた薫くんが、なにかの価値を守ろうとして死を試みた高橋に一瞬共振し、そのときまさにアポロは月に到達する。



 というわけで、薫くん4部作は読了。持久戦という思想について、花田清輝はどう評価したんだろうと気になったけど、検索すると『赤頭巾ちゃん気をつけて』の時に絶賛してたらしい。そりゃそうか。しかしそんな文章を読んでいたのかどうかがちょっと思い出せないので、あとで調べてみます。
タグ:庄司薫
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posted by すける at 09:02 | Comment(4) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
風月堂の女の描写、黒のランニングシャツを乳首をくっきりと見えるようにあらわに着て、の一文に興奮、ノーブラ旋風時代、再来しないか!
Posted by 水田 at 2014年04月30日 20:09
>水田さん

このコメントのおかげで「ノーブラ旋風」の検索からアクセスが入るという思わぬ副次的効果が(笑)
Posted by すける at 2014年05月30日 19:51
ここをたまたま見て、まだ蔵書にあった本書を久しぶりに再読して見たのですが。
なかなか巧みに各シーンが構成されてますが、基本的に「議論」によって進行する構成の作品のようですね。それらを上手く「セリフ」に化してるという噛み砕き。

十字架回収委員会、十字架回収委員会研究会、古代の書記に擬せられたるシヌヘ、
葦舟ラー号、アポロ11号、そして自殺を試みて死の間際を彷徨う青年と、堕胎を予約して新たな生命を殺そうとする少女。そして青髭の正体。

それらは非常に象徴的であり作為に過ぎるとすら言えそうにも思えます。
またこの作品での主人公の出で立ちは、付け髭に麦藁帽子に虫取り網。
夏休みの始まる日に、付け髭という偽の大人の変装をして、昆虫採集に出かける子供よろしくそういった装備で、颯爽と家を出ていくわけです。

薫くんは、その捕虫網で何をとらえようとしたのだろうか。
付け髭で背伸びして大人ぶってみせたが、その一方で夏休みの子供定番の昆虫採集の装束でそのひと夏の「冒険」に挑んだ主人公がその蝉取り網で手にしたものは?

 子供の絶望と、大人の哀しみ・・・

まあ、とても良く出来てるとは思いました。
セリフとして進められる形而上学的論議、というより政治学的でもあるのかな。
登場人物各人が、そんな次から次にそのテーマを巡る深遠な洞察を「会話」で発するとは思いにくいのですが、そこはフィクションですし、また地の文である一人称の知的饒舌体含めて上手くマジックが作用して成功を収めているのでしょう。

シーンの移動というのは確かにあるのですが、各場面では固定された空間。
役割とそれに沿った「セリフ」がしっかりとしており、それぞれが極めて象徴的。
それらによって、「演劇脚本みたいだな」とも思えました。

野田秀樹よりも鴻上尚史っぽいって感じかな。
時系列としては鴻上尚史の劇とシナリオの方が後となるのでしょうから、
鴻上にその影響が見られるなどとも言えるのかもしれないですね。

景山民夫のエッセイに「僕も猫語が話せる理由」なんてのもあって、
そのタイトルの文章の出来は余り良くないのですが、他のエッセイでは
饒舌体的文章に、もしかしたらその影響が伺えたりもするのかもしれません。


  「子供の絶望」と、「大人の哀しみ」・・・

 その中間に「青春の苦悩」と「その限界」っていうお話か。


 そしてそれは「苦悩」とも言える一方で「悪あがき」とも言えるのだから、
 それを「親切に解説しましょうかね。話し言葉たる知的饒舌体で・・」

  といった上手くできた「作品」となるのでしょうか。


 「わざとらしい演劇空間みたいだ」とまで言うのは、
 後にそれに影響された演劇作品などを先に体験してるからだろうから、
 的外れな批判としかならないのでしょうね。


 ところで、とんでもない蛇足ですが、
 ノーブラ黒タンクトップについては、
作品背景が90年代に設定され、その時代に同時代の現代作品として発表された
藤原伊織の『テロリストのパラソル』でヒロイン装束として登場してたっけ。
その後もその続編みたいなのでも、なぜか拘ってノーブラ黒タンクトップ乳首ヒロインだったそうで・・・・
「一体いつの時代なんだよ!このジジイ!」と突っ込まれてたようでしたね。
それをしつこく指摘して攻撃してたのは、市井の一人などではなくて
文芸批評家を名乗れる立場の福田和也だったと思います。
 罪作りだなぁ・・・・ノーブラ黒タンクトップ。
 そんなにいつまでも時代認識取り間違えるほど印象深かったのか・・・・。
Posted by 通りすがりですが・・・ at 2016年01月16日 13:46
>通りすがりですが・・・ さん 「演劇脚本みたいだな」というのはおっしゃる通りで、薫くんの前にあらわれる人物は必要な時に必要なことを言うために出てきて、それを為し終えると退場していくという形になっていますね。それは的外れな批判ではなく、構成の意図を正しく受け取っているということではないでしょうか。  そして途切れることの無いノーブラ問題……。『テロリストのパラソル』は読んでいないのですが、そんなところに余命を保っていたとは。
Posted by すける at 2016年12月01日 19:21
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