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2012年03月22日

『アギーレ 神の怒り』と『フィツカラルド』 ヴェルナー・ヘルツォーク監督

 早稲田松竹で、ヴェルナー・ヘルツォーク作品二本立ての『アギーレ 神の怒り』と『フィツカラルド』を見た。



 先にいっておくと、これから書く感想は、大塚英志の『人身御供論 通過儀礼としての殺人』の八章、当該作品を論じた「供儀願者の動機」をベースにしているので、興味を覚えた方ははこちらも読んでいただきたい。

 さて、この両作は、構成している要素は非常に似通っているのだけれど、決定的な点で異なっており、それが作品全体の印象に劇的な変化を与えている。個人的には、こうした比較をする上で『アギーレ』を見てから『フィツカラルド』という順番を推奨したい。

 共通する要素とは、白人の入植者が、アマゾン川を下る、あるいは遡行する過程で、原住民の神話を自覚的に再現し、一体化していくというものだ。こうした要素は、当然『地獄の黙示録』やあるいは『闇の奥』をも想起させる。
『アギーレ』においては、筏に乗った白い人、『フィツカラルド』においては空を飛ぶ船に乗った人として、主人公をクラウス・キンスキーが演じている。

 異なる点を挙げると、アギーレは、川を下るに際して、娘を同行させている。それは越境した地において、娘と結婚するという禁忌をおかし、それによって自身の神性を打ち出し、新大陸における自らの王権を強調するためのものだ。ここで、女性を同伴させることは、「帰ってこない」ことを意図している。
 いっぽう、フィツカラルドには妻がいるが、川の旅は危険だとして彼女を同行させず、かわりに船に妻の名前を与える。ここからは、最終的にはフィツカラルドの旅が「帰ってくる」ことを目的としていることが読み取れる。

 アギーレは、自分から離反しようとする直前だった部下さえも襲撃で失い、けらいのひとりもいない王様として戴冠を宣言する。彼の即位を見守るのは野生の猿だ。アギーレは、征服者としてアマゾンにあらわれながら、最終的にその世界のなかに呑み込まれたように見える。大塚はアギーレの王位を供儀のための〈偽王〉と規定する。

『フィツカラルド』では、さらにそれが明示的だ。船の山越えという途方もない行為を成し遂げ、神性を証明したフィツカラルドは、しかしそれゆえに原住民の策に落ち、船で激流に向けて流されることになる。原住民が、フィツカラルドに協力していたのは、彼を川の怒りを静めるための犠牲として提供するためだったのだ。

 だが、展開から考えればここで死ぬと思われたフィツカラルドは生き残ってしまう。たとえば『アギーレ』と同じ構造だったら、フィツカラルドはやはり死んでしまうはずだろう。神話的な世界に越境しながら、人間として帰ってきてしまうというこの作品は不徹底なのだろうか?

 そうではない。フィツカラルドは象徴的に死ぬが、それゆえに死ななかったのである。これを大塚が指摘するように通過儀礼、死と再生の物語と捉えれば、分かりやすい。「死と再生」とは言うものの、肉体的に死んだのでは再生どころではない。儀式として文化的に死ねば、それで目的は達成されるのだ。だから、綱から切り離された船には、原住民が同行しており、このことの理由は作中ではっきり言明されていなかったと思うが、介添え人として儀式を見守り、フィツカラルドが死なないことを担保するためものだと思われる。


 大塚英志は、帰還したフィツカラルドが、その時点で財をなすことに成功したように書いているが、わたしはちょっと違う印象で、土地を取得した際の条件を満たしているとは思いがたいこと、船の売却については、買い手が「足元を見るわけではないが…」というような言い方をしていることから、極端な好条件を提示しているわけではないように見える(それでも、フィツカラルドが不利なわけではないが、買い手の方が現実的に事業を拡大させているのではないか)ことなどがあるためだ。

 しかし、それはささいなことだ。フィツカラルドのアマゾンの山奥にオペラハウスを建てるというパラノイア的な欲望は挫折させられるが、その代わりに、残った金を使い、流れ行くアマゾン川に浮かべた船上にオペラ劇団を呼び、川岸に集まる人々に向けて公演する。狂的なまでの野心は、ひとときのものではあるけれど現実的な地平に着地して、そのこと自体が、フィツカラルドが通過儀礼を終えて、社会に戻ってきたことの証左のようでもある。

 そして、このラストシーンのクラウス・キンスキーの表情だ。ビロードの赤椅子に座った彼は、その瞬間にはたしかに王に見えるが、アギーレの猿に囲まれた神の怒りとしての無残なそれではない。フィツカラルドの異様な執念は、アマゾンにこだわる監督ヘルツォーク自身と重ねて見ずにはいられない。そして、クラウス・キンスキーはフィツカラルドの物語のみならず、この映画に関わるすべての達成を包含して、圧倒的な余韻を残していく。スクリーンのクラウス・キンスキーにあなたも手を振りたくならないだろうか。

『アギーレ』には、誤解の余地のない諸要素の凝縮された作品として、『フィツカラルド』については、読むほどに両義的な意味を生み出す作品として、ともに大傑作である。

アギーレ・神の怒り [DVD]
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フィツカラルド [DVD]
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 付言ながら、大塚の『人身御供論』は、物語の中で人が死ぬ意味、あるいは旅に出て帰ってくる理由について、読み方の指南となると同時に、物語の書き手にとっても、自分の書いているものについて意識的になる契機を与えてくれるものと思う。

人身御供論―通過儀礼としての殺人 (角川文庫)
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posted by すける at 23:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画・演劇・ドラマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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