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2015年04月30日

『花園メリーゴーランド』柏木ハルコ

 生活保護の現場を描いたマンガ『健康で文化的な最低限度の生活』を読んだことで、柏木ハルコの再読熱が高まり、当時連載を追っていた本作から読み直す。

花園メリーゴーランド(1) (ビッグコミックス)
花園メリーゴーランド(1) (ビッグコミックス)

 柏木ハルコはデビュー作の『いぬ』のころから読んでいて、本作も頭のいい人だなと思いながら読んでいたのだけれど、当時は舞台設定の違いに惑わされて、この作品が『いぬ』と地続きのテーマを扱っていることにはっきりと気づいていなかったように思う。そして、舞台を変えてきたこと自体が作品の大きな狙いだったわけだけれど。
『いぬ』も『花園メリーゴーランド』も、恋愛感情と性欲が特定の相手の中で一対一対応するという倫理にゆさぶりをかけられる男子というものがテーマになっていて、『いぬ』においては都会の大学生活という日常に近い舞台の個人的な関係の中で生じる物語として描かれていたが、『花園メリーゴランド』では柤ヶ沢という集落に迷い込むことで環境そのものに性観念をゆるがされるようになっている。ここでは最終巻に参考文献として赤松啓介や群逸枝、岩田重則などが挙げられているように民俗学的な知見が援用されていて(岩田は最終巻に解説も寄せている)、『いぬ』において提示されたテーマの根拠を民衆のかつての生活の中に見ようとする著者のアプローチが、非常に知的に構築されたものだとうかがうことが出来るのだ。

 物語のきっかけが、主人公の少年、相浦くんが、ふとしたことから先祖に伝わる名刀「烏丸」の存在を知ってそれを手に入れようと田舎を目指して出発する形を取っていることも、通過儀礼をやりますという冒頭での宣言であり、作品が向かう方向を明らかにしている。立派な刀は明らかに暗喩であり、相浦くんはダメな自分に烏丸という名刀は相応しくないのではないかという疑念を持ちつつ「烏丸を手に入れれば自分が変われるような」気がして、だからこそ手に入れたいと思う。このことは村の女性たちに遊び半分?にズボンとパンツをおろされて性器をむき出しに見られたあげくその大きさ(小ささか)を哄笑されるという年ごろの少年にとって屈辱的な経験をすることとも対になっている。

 柤ヶ沢の設定も絶妙なもので、たしかに現代の一般的な風俗と離れた慣習を持ってはいるが、社会と隔絶しているわけではなく、バスも通ればテレビも見るし、ヒロインとなる少女、澄子はブルーハーツのファンでもある。この十代の少女として当たり前の感性と、村の慣習に基礎づけられた性観念が澄子の中に分離しつつ同居もしていることが物語を動かすひとつの因ともなっており、彼女もまた村の通過儀礼によって変化を強いられてゆく。
 それにしても、同じ年頃の少年相浦くんとブルーハーツという共通の話題で盛り上がって、野音のライブビデオはこの辺田舎だから売ってなくてと恥じらい、あとで送るよと言われて「楽しみ」と表現できる澄子の可愛さよ。思春期の振幅の大きい言動は物語を通じて相浦くんを困惑させるものであったけれど、終盤53話「宇宙の入り口」であらわされる、彼女の中にある混乱をそのままぶつけた感情の発露は圧倒的なもので、物語の中でアンチテーゼにより揺るがされ続けてきた恋愛の意味が再び強く競り上がってくることになる。

 相浦くんは最終巻において、柤ヶ沢の表向きではないほんとうの祭りの夜についに刀を振るい成長を遂げていく。週刊連載ということでいろいろ制約や困難はあっただろうと思われるけれども、冒頭からラストへ向けてゆるぎない構成のもとに描かれた本作は通過儀礼テーマの傑作として記憶されるべきだと思う。そして巻き込まれた形とはいえこうした民族的な儀礼が少年を成熟させるときに、近代の社会がそれに代わるどのような(性的な側面も含めた)成熟に至る道筋を提示できるのかという困難さについても少し考えるのだった。


花園メリーゴーランド(4) (ビッグコミックス)
花園メリーゴーランド(4) (ビッグコミックス)

花園メリーゴーランド(5) (ビッグコミックス)
花園メリーゴーランド(5) (ビッグコミックス)
タグ:柏木ハルコ
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posted by すける at 22:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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