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2016年05月22日

『彼女がエスパーだったころ』宮内悠介

 百匹目の猿、スプーン曲げ、水伝、ホメオパシーなどが発想のもとになっていると思われる疑似科学を題材とした連作短編集。

彼女がエスパーだったころ
彼女がエスパーだったころ

『アメリカ最後の実験』を読んだばかりだと思っていたのだが、刊行ペースが速いなぁ。疑似科学を、とはいうもののその科学的な当否を問うことは主眼ではないことはまず確認されるべきで、そのような期待に応えるための話ではないが、しかしそのような期待を持つ人にこそ読んでほしいかもしれない。いっぽう、前著『アメリカ最後の実験』は「もはや性にも暴力にも動かされない」世界を前提にしていたが、本書では性による突破や一度去勢された暴力衝動の復活などが描かれる。さきの作品で繰り返し唱えられていた前提がどのような認識に支えられているのかを確認する意味でも非常に興味深い作品群である。暴力については「ムイシュキンの脳髄」で、性については「佛点」でとりわけ重みをもって扱われるそれらの試みの大半は結局のところ週刊誌の記事の水準の事件に解消されてしまうのだが、やはり問題はそこでは解消されない何かなのだろう。とくに「ムイシュキンの脳髄」における暴力性の復活の企図は『アメリカ最後の実験』の構想の裏側に密着しているものなので、ぜひあわせて読んでほしい。

 最後の短編「佛点」で、登場人物の多くに自炊する場面が見られたのはよかった。黄もイェゴールも遍歴を重ねた主人公も自分で料理を作るのだ。ちょっとすさんだ精神状態だったところからのリハビリだったと思うのだけれど、わたしには登場人物が自炊するシーンがあるかどうかという興味だけで小説を読んでいた時期があって、そこで面白かったのはクイーンの非シリーズ作品『ガラスの村』だったななんてことを思いだす。本当に個人的なことではあるが、自分で料理できるようになるというのはひとつの回復の基準であるなと。

 この作品が『小説現代』というザ・中間小説みたいな雑誌に掲載されたのはいい感じで、最初に本を開いた時には紙質におやっと思ったんだけど、連載の媒体や内容を考えるとけっこうマッチしているんではないかと。もっと俗っぽく読者に届くバージョンの表紙があってもとか妄想。日本SFと中間小説(という言葉がいまどれだけ通じるのかという問題もあるけど)の関係がいまよりもっと密だったと言えるような時代はあったはずで、それはけっこういいことだったんじゃないか。広い媒体に書き分けながら諸作品の底にある問題意識は一貫したものがあることが見られる宮内悠介の作品は追い続けないといけないだろう。
タグ:宮内悠介
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posted by すける at 08:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | SF | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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