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2017年03月29日

『ライチ☆光クラブ』古屋兎丸 原案・東京グランギニョル

 タイトルを知っていながら、長いこと放置して、今さらながらに読んだのは、あるツイートを目にしたことがきっかけだった。

ライチ☆光クラブ (f×COMICS)

 遠ざけていた理由はわりと分かりやすく、あまりにも丸尾末広的な絵柄で東京グランギニョルの舞台『ライチ光クラブ』を原作としたマンガを描くということの意味を得心しかねていたからである。何周遅れかで希釈した頽落した意味でのサブカルではないのか、そのような困惑があったのだ。

 と、そのような疑問は結局読めば解消するのである。このマンガ作品はキャッチな文句である特異な少年たちの特異な少年たちの「耽美」な物語が主題ではない。そうではなく、そこにあったのは凡庸さに怯え「耽美」に憧れるということそのものの救いがたい凡庸さ、キッチュな衣裳の内実を欠いた貧しさだった。それは通過儀礼の失敗というかむしろ反通過儀礼の失敗というべきだろう。少女に手ひどくはねのけられた「廃墟の帝王」の口から出てきた言葉は「螢光中だからって馬鹿にするのか?」であり、ここに少年たちの地下活動の真実がある。
 ただし、この作品において、このように黒い油と黒い煙に覆われた老いた工場街の螢光町からどれだけ目を背けようと人生を規定された、凡庸な成長を恐れる少年たちの戯画化は著者の愛によってなされており、そのことによって生じるものは愚かな少年たちへの嘲笑ではなく、ある痛みの共有だろう。

 マンガ表現である本書とわたしは残念ながら未見の東京グランギニョル、1985年初演時のシナリオ(だって小学校を卒業したくらいだぜ)との異同の程度は今となってはなかなか分からないのだけれど、ある程度見当はついて、それは光クラブ創立時のリーダーだった田宮に焦点をあてた前日譚としての古屋兎丸オリジナル作品である『ぼくらの☆ひかりクラブ』からも読み取れるのではないか。
『東京グランギニョル Endless Art』というHPの記事で、東京グランギニョル版で主人公ゼラを演じた常川博行氏が映画版『ライチ☆光クラブ』について「これは『ライチ光クラブ』ではなく『ぼくらの☆ひかりクラブ』の映画化なのでは? それなら、解る。「ぼくら」は、兎丸ワールドだ」と言及したコメントが紹介されている。これはさすがに主演者による卓見というべきであろう。後続する言葉はマンガ版の受容のされかたについての違和感も表明しているものだが、肯定的に捉えるにせよ否定的に捉えるにせよ、『ぼくらの☆ひかりクラブ』のテーマ性がマンガ版の『ライチ☆光クラブ』を規定していることは間違いないのではないか。『ぼくらの☆ひかりクラブ』で描かれた部分のストーリーが映像部分に直接含まれていないとしても、『ぼくらの〜』の映画化と捉えることには批評的な根拠がある。
 東京グランギニョル版『ライチ光クラブ』と、古屋兎丸『ライチ☆光クラブ』の質的な差異は、『ぼくらの☆ひかりクラブ』から引き出されるもので、それは本編の冒頭において、貧しいドイツ語の数詞(古屋による四コマ漫画「常川君の日常」ではラジオの講座でドイツ語の単語をひろう姿が描かれる)と奇妙なニックネームで呼ばれた少年たちが、『ぼくらの☆ひかりクラブ』の幕切れにおいては彼らのごく当たり前で平凡な名前で明記されるところではっきりとするだろう。

 この作品の感想を検索してみると、「耽美」やグロテスクを主題とした『ライチ☆光クラブ』のようなマンガを読むことから卒業しなければ、というような言葉を見ることもあった。しかし、『ライチ☆光クラブ』というマンガはそもそもそのように読者から卒業されることを祈念した作品ではないかと思われる。そうして読者に去られることによって物語はやっと完結することが出来るのだ。しかし、その時には卒業することが出来なかった彼らを思いだしてほしいと、思う。


ぼくらの☆ひかりクラブ 上[小学生篇]
ぼくらの☆ひかりクラブ 上[小学生篇]

ぼくらの☆ひかりクラブ 下[中学生篇]
ぼくらの☆ひかりクラブ 下[中学生篇]
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posted by すける at 14:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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