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2018年11月18日

『呉越春秋 呉越興亡の歴史物語』趙曄

『雷子 紺碧の章』からの流れで呉越の話である。信頼の東洋文庫。なお、初訳である本書の刊行はゲームの制作よりもあとで、もう少し早く出してくれていればという声も。


 構成としては呉の巻と越の巻に分かれており、これだけだと均質なように見えるけれども、目次を見ると違いも明らかであり、呉の巻がわりと各世代の王に伝を割り振っていることに対して、越の巻は勾践の各時代に伝が立っているという不均衡なつくりだ。こういうところには著者の狙いを感じるべきだろう。
 それにしても伯嚭は闔閭伝においては、孫武・伍子胥とほぼ同格の功臣扱いで、三本柱と言ってもいいくらい。佞臣として扱われるのは夫差伝から。考えてみると、闔閭は元楚人の亡命者である伍子胥・伯嚭を政治の枢要に置き、軍事にはその伍子胥が推挙した孫武を用いて、大きな混乱を招かず、存命中はまずうまく乗り切ったのだから優れた人物だといえるだろう。

 勾践という人物は、エピソードレベルの知識で、逆境から再起した人物として単純にとらえていたのだけれど、不遇に耐える動機が決して個人的な水準を超えず、普遍的なレベルに還元されることがないので、なかなかとっつきづらい人物であった。范蠡の勾践評「患難を共にすることはできるが、楽しみを共にすることはできない」というのは、言いえて妙というものだろう。
 この辺り、闔閭を成功させた後に身を引きそこなった伍子胥と、所期の目的が達せられたところで、これ以上の諫言は勾践に届かないと見るや姿を消した范蠡、あるいは夫差伝からは姿すら見えない孫武のような人物との対比が鮮明になる。功績をあげた臣下の出処進退のあり方は、中国史において、春秋の後でもテーマになり続けることを私たちは知っている。
 あるいは、伍子胥と同じような立場に置かれることになった文種のもとに、死後の伍子胥があらわれる怪異譚のような語り口が、歴史の状況下における人物の対比と同列化という側面を見せてくれるのだ。

 訳者の佐藤武敏氏は、楚の占卜の訳出にあたり非常に歯応えがあった旨、解説で書いているが、ほかに闔閭伝でも城郭を築く際に風水的思考を取り入れていると思われる描写が1ページ近く続くなど、アプローチの仕方で非常に面白いものが切り出せそうである。
 また、解説では、陳橋駅による「夫差は春秋最後の覇者であり、勾践は戦国最初の雄者である」という、越の中央集権化と歴史全体の流れを統合した指摘も紹介されており、晋の分裂から趙韓魏の成立に基礎を置く一般的な春秋戦国時代の区分とは少し異なっていると思うが、聞いておくべき意見だろう。

 あ、呉を責める準備をしている途中で唐突に「森で生まれ野で育った剣の達人の少女」が出てきて、越の兵士に剣術を指導するなんてエンタメな展開がでてくるけど、これを題材にして金庸が「越女剣」という短編を書いていて、ずいぶん前だけど、ムーン・リー主演で映像化されているらしい。 金庸、今まで読んだことなかったのだけれど、読んでみようかな。



タグ:春秋時代
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posted by すける at 01:30 | Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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