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2019年03月15日

『史記世家』司馬遷

『史記』列伝を読み終えることができたので、世家に移る。自作年表を作りながらだったので、ずいぶん時間がかかったが、とはいえ、世家はある程度編年体的な性格があるので、春秋時代の動きはだいたい頭に入ってきた。



『史記世家』においては、なぜ「呉太伯世家」が巻頭に来るのか、比較的辺境で、中原からは重要度が低いとも言える呉が、という疑問があったのだけれども、「周本紀」を読んである程度納得できたというか、周文王の父である季歴に国を譲った太伯・虞仲の兄の建てた呉で、やはり兄弟間で国を譲ろうとしあう季札のエピソードが直線的ではないが反復を示して、周の血縁である世家春秋編の性格を示しつつ、その季札が、外交の過程で各国の音楽を聴くことを通じて同時代の政情を評したり、戦国時代の開幕となる晋の崩壊を告げる預言者的な役回りを演じている。これが「呉世家」の巻頭における目次としての役割だと思うと腑に落ちる。「呉世家」伍子胥だけの話ではないと。




「趙世家」で武霊王の胡服採用に司馬遷が紙幅を割いているのはけっこう重要で、春秋時代の特徴としてしばしば言及される「騎兵はいない、馬はあくまで戦車を引く」という時代が終わって、騎馬から直接弓を引く機動力重視の戦争スタイルが採用されていくようになる。春秋と戦国の時代区分については、いくつか基準があるけれど、戦争の性格の変化も一つの基準だろう。趙は異民族と境を接していたことで変化できたんだけど、戦国時代に秦が強勢を誇ったのは、他の戦国の国々を東に置いていたと同時に、西の国境を匈奴と争っていた にもかかわらず/だからこそ かとも考える。
 このスタイルの変化は「春秋に義戦なし」と評されつつも、戦後処理に甘いところもあった春秋から苛烈な戦国時代への変化との関連も想起させられるだろう。

 「魏世家」での信陵君の発言「秦は夷狄と同じ風俗」は秦を貶める意図のものだけれど、同時に秦の強さを暗示しているような気もする。匈奴の風俗と法家的改革。魏も戦国時代を告げる新しいプレイヤーではあったのだけれど。


 構成としてみてみると、第一「呉世家」から第一二「鄭世家」までが春秋期から戦国末期までのスパンを持つ国であり、一三から一六まで、趙魏韓に田斉と戦国期に端を発する国を扱う。ここからは武田泰淳の受け売り感が強くなるが「孔子世家」が春秋戦国の国の枠組みを越えた意味での思想を表して、構成的には異質なものとして差しはさまれ、また「陳涉世家」も、周につらなる王族としてのなんらかの起源をもつ春秋の「世家」世界像に対して「王侯将相寧んぞ種あらんや」という形で攻撃を加える。陳勝が列伝でなく世家に立てられる理由は多分ここにある。このあとに入るのが「外戚世家」という皮肉も強烈だ。

 このあとの世家は、もはや群雄という感じはなくなり、漢の忠臣、代々の功臣という立ち位置でのみ永らえるという形である。統一秦への反乱には、戦国の裔も少なからず参与していたけれど、こうした反秦勢力が秦以前の政体に戻れるわけではなく、呉楚七国の乱の鎮圧あたりでこの欲望は一度潰える。
 ただ、「留候世家」に見られる、秦に滅ぼされた戦国各国の子孫を王に迎えて、劉邦はその盟主として楚と対峙するという酈食其の策が、最終的に張良の激しい論難にあいひっくり返されるあたりのくだりは、まったくの愚策というより、今後の世界像についての対立と思われる。酈食其の策が中途半端にあたり、歴史の針を逆に戻すということはありえたはずであり、そうした群雄諸国という世界こそが想起しうる世界像だという人々は必ずしも少なくなかっただろう。こうした世界像が一度提起される必要はあったし、そうした処理を張良のような人物がひっくり返すというのが歴史の転換点というものだろうか。

 こうしたことが見えてくると、後漢において曹操が魏王になることの危険性も少し分かってくるかもしれない。曹操本人の問題もありつつ、こんなことを言いだすのが他にも出てきたらどうするんだという。

 そういうところまで見えてきて、やっと「秦本紀」が射程に入ってきた気がする。



タグ:春秋時代
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posted by すける at 20:59 | Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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