2016年04月28日

『カントク記 焼とりと映画と寿司屋の二階の青春』山本晋也

 新刊書店に出かけたものの目当ての本二冊は買えずふらふら棚をのぞいていたらたまたま目に止まった本を即座に購入。こちらはネットで張っている読書系のアンテナにはまるで引っかかっていなかったので、やはり現物を見て回れる場所があるのは重要だ。

カントク記 焼とりと映画と寿司屋の二階の青春
カントク記 焼とりと映画と寿司屋の二階の青春

 カントクと言えば最強伝説、であって最近の日刊ゲンダイの記事でも足立正生が語るエピソードなどは抜群に面白かった。
「ある日、応援団に呼び出され、同級生で応援団長だった山本晋也に“足立、学内で反安保運動をやってるのか?”と問い詰められた。すかさず“オレがやってるのは門の外だ”と答えたら、山本は“おまえら、情報は正確なものを出せ。この野郎!”って周りの応援団員をボカスカ殴るわけ。100人くらいに取り囲まれていたからね。当時の日大は応援団と運動部が支配する右翼大学だっただろ、返答次第では命の危険もあった。つまり、山本はオレの命の恩人なんだよ」(http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/175361/2
 もう、とにかく素材が最高としか言いようがない、足立正生と日大応援団の一触即発の状況をひとりで持ってっちゃうんだから。

 そんなこんなでちょうどいいタイミングで出版された本書にもカントクの足立正生と若松プロとのちょっとした関わりや、応援団の話がチラリと書かれていてもうすっかり嬉しくなってしまうのだ。まあ、ケンカの話は分量としては多くはないのだが、水道橋博士の悪童日記でも触れられている「パッチギ」を荒木一郎にかましたエピソードで充分おつりがくるだろう。

 第二章から第三章は赤塚不二夫との出会いから「面白グループ」への参加、そして当時は無名、今から見れば超豪華キャストという伝説の『下落合焼とりムービー』(1979年)の話へと展開されるのだけれど、この映画の完成後にグループはなんとなく自然消滅してしまう。「『下落合焼とりムービー』は、そんなオレたちのちょっと先延ばしにしていた青春の終わりであり、永遠に続くかと思っていたバカ騒ぎの終焉だったのかもしれない」という言葉には、誰もが感じたことがあるだろう切なさがある。
 とはいえ、青春のエキストライニングスは『下落合焼とりムービー』からも伸びている。この映画に関わった人物として和光大学映研の土方鉄人の名前が挙がるのも非常に興味深い。すでに『特攻任侠自衛隊』(1977年)という怪作を自主制作していた土方は、この後80年に『戦争の犬たち』という作品を撮ることになる。これは日大映研の石井聰亙『高校大パニック』(1976年自主制作版)から80年の『狂い咲きサンダーロード』に併走する時代の感覚であり(両作品に土方も関わっている)、新しい映画の傾向を先駆けるものだったはずだ。

 第四章では『トゥナイト』のリポーター時代の話で、わたしがリアルタイムで知っているのはこの時代からということになる、というか「カントクって以前は本当に映画撮ってたらしいね」というくらいの認識だったんだよなぁ。風俗の女の子の取材で部屋に三島や太宰、川端の文庫本を見つけ、天丼を食べたのが一番嬉しかった、という人生に思いをはせるのがエンディングに相応しいだろう。助監督を務めた滝田洋二郎や『宝島』の編集者平哲郎、所ジョージ、美保純との対談も入って、なかなか読みごたえのある一冊だ。

下落合焼とりムービー [DVD]
下落合焼とりムービー [DVD]

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posted by すける at 22:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画・演劇・ドラマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月03日

『獣人』ジャン・ルノワール監督・エミール・ゾラ原作

 シネマヴェーラ「映画史上の名作」枠で鑑賞。劇場で見るのは難しいのではと思いつつも、少し前の新文芸坐ピクニック at ハンギングロック』の併映だった『ピクニック』でジャン・ルノワール監督の作品を見て布石を打っておいたのだった。

獣人 [DVD]
獣人 [DVD]

 冒頭でゾラが映されるシーンにルノワールからの敬意がまざまざと感じられる。そこで述べられる遺伝子による決定論は現在ではそのまま受け入れられるものではないけれども、同時に文化的な振る舞いの再生産の傾向としてとらえ直すならば、くみ上げられるものは多いという気がする。

 ジャン・ギャバン演じるジャック・ランティエはマッカール系の人物であり『居酒屋』のジェルヴェーズの息子、『ジェルミナール』のエティエンヌや『ナナ』のナナの兄であり、映画化もされているルーゴン=マッカール叢書の他の重要作品に連なる人物である。彼の突如として沸き起こる殺人への衝動と機関車という近代的な移動手段との結びつきが作品に大きな効果を与えていることは見るものの眼にあきらかだろう。列車から撮られた映像はすばらしい説得力をもっており、文章からだけではイメージしがたかったフランスの鉄道風景を見られたことも収穫だった。

 女性陣ではジャックが魅了されるセヴリーヌよりはやや曖昧な関係のまま終わるフロールの方が原作でも映像でも魅力的だと個人的には思うのだが、映画では冒頭、ジャックの衝動を描く場面以外では登場しないのはちょっと残念だった。もっともメインで出ることになると凄惨な最後をむかえることになるので、その方がよかったかもしれない。

 映画版の『獣人』の舞台は20世紀に寄せられているのだろうし、映画単体での眼目は19世紀を描くことにはなかろうからそれはそれでいいのだけれど、そうなると作品のラスト、鉄道の驀進がジャックたち個別の人物の悲劇などはじき飛ばす勢いで普仏戦争に直結していくというつくりは消えてしまう、そこだけは少しもったいなく感じる。

獣人 ゾラセレクション(6)
獣人 ゾラセレクション(6)
タグ:ゾラ
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posted by すける at 22:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画・演劇・ドラマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月26日

『ピクニック at ハンギング・ロック』ピーター・ウィアー監督

 長年見たいと思いながら鑑賞の機会が無かった作品をやっと新文芸坐で。

ピクニック at ハンギング・ロック ディレクターズ・カット版 [DVD]

 この作品が一部の人々にに強い評価を与えていることは知識としてあり、その残照は筋肉少女帯のアルバム『猫のテブクロ』に収録された「最後の遠足」につながる「PICNIC AT FIRE MOUNTAIN」という小品のタイトルにも表れているだろう。

 そして少女たちの耽美的な映像が賞揚されることも多かったこの作品だけれども、大塚英志『人身御供論』の指摘するとおり、少女たちの通過儀礼と、様々な形での対応が描かれているという見方を取るならば、決して少女性を手放しに賛美している作品ではないと言える。
 冒頭でピクニックの舞台となる山の地質学的な性質への言及がなされるけれども、それは時間的な断層から異界との接点となっていることがそれとなくほのめかされている。それはピクニックの途中で時計が止まってしまうという別の形でもあらわれている。休憩する友人たちから離れた四人の少女たちはそのような岩山のさらに奥へ高みへと登っていくのだけれど、その過程で一人は逃げ帰り、二人は行方不明になり、一人は少女たちが山奥へ分け入るのを見かけた少年マイクルによって長い探索ののちに発見されて生還する。

 マイクルが生還した少女アーマを見つけるにあたって、自分のたどった道の枝にやぶったメモをさしはさみ、それを下僕のアルバートがあらためてたどって遭難しかけていた二人を発見するという構成になっている。これは魔術的な要素が強く、常識的な山狩りなどではなく、このような形でしか少女を救うことが出来なかったことをあらわしている。映画の序盤、アルバートが口をつけたワインを勧められた際に、ややためらって服で瓶の口をぬぐってから飲んで返し、再びアルバートが口をつけてから勧められて、今度はためらいを見せたあとに直接飲み干すというシーンがはさまれていることも重要で、こうした同志的儀礼が遂行されていなかったら、おそらくマイクルはアルバートに見つけてもらうことが出来なかったのではないかと思う。アルバートは主要登場人物中でおそらくもっとも地に足の着いた生活を送っている人物だ。

 こうした中で通過儀礼によって少女時代を越えていく者と、少女性の形式を守ろうとする寄宿舎とのきしみも明らかになってくる。浮世離れした少女性を担保する寄宿舎も授業料滞納という通俗的な理由からセイラを排除しようとするのだが、その寄宿舎も失踪事件を端に退学者が続出すると、資金繰りに苦しめられるという皮肉な状態に陥る。寄宿舎の閉鎖に伴い生徒たちはまた別の寄宿舎で少女性の延長を計ろうとする一方、生還したアーマだけはヨーロッパというオーストラリアにとっての外側の世界へと旅立つことが許される。

 こうした通過儀礼の先に行ってしまって帰ってこなかったミランダと、帰ってきて世界の中に自分の立ち位置を見つけるアーマという構図はヘルツォークで言えばアギーレとフィツカラルドに擬せられるべきものであり、このような形で一作品の中で儀礼への対応を描き分けたことにこの作品の眼目がある。
 この辺りのことは『人身御供論』で詳細に論じられているのでそちらもぜひ読んでほしい。さて、あらためて大槻ケンヂ、「PICNIC AT FIRE MOUNTAIN」から「最後の遠足」へ(詩集では「最後の遠足」として一本でまとまっている)。遠足で行方不明になった子供たちは何人か違う運命をたどりながら、最終的には全員が行方を断ってしまう。

「その時から 我校の遠足は/父兄同伴が義務となった」

 ここには通過儀礼の失敗から、通過儀礼そのものが骨抜きにされてしまい、困難になっている状況への洞察がほのめかされているように思われる。1990年の大槻ケンジ(思潮社版はこの表記)『リンウッドテラスの心霊フィルム』に付されたリーフレット、大塚英志「笛吹き男のいいわけについて」は大槻ケンヂの詩における通過儀礼の性格について述べている。そして、この小文はやがて94年の『人身御供論』の議論にもつながるものだと思っているのだ(『人身御供論』収録の文章は89年から91年にかけて『アーガマ』に連載されていたという)。この映画を見たことによって25年がかりでひとつの輪がつながった。

「うさんくさい人」という印象の強かった大塚英志に対する評価を改めたのは、彼がこの大槻の詩集の中から、特に「星の夜のボート」一篇を選んで論じていたのを読んでからだった。


人身御供論―通過儀礼としての殺人 (角川文庫)
人身御供論―通過儀礼としての殺人 (角川文庫)

猫のテブクロ
猫のテブクロ
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posted by すける at 23:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画・演劇・ドラマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする