2015年11月26日

『ピクニック at ハンギング・ロック』ピーター・ウィアー監督

 長年見たいと思いながら鑑賞の機会が無かった作品をやっと新文芸坐で。

ピクニック at ハンギング・ロック ディレクターズ・カット版 [DVD]

 この作品が一部の人々にに強い評価を与えていることは知識としてあり、その残照は筋肉少女帯のアルバム『猫のテブクロ』に収録された「最後の遠足」につながる「PICNIC AT FIRE MOUNTAIN」という小品のタイトルにも表れているだろう。

 そして少女たちの耽美的な映像が賞揚されることも多かったこの作品だけれども、大塚英志『人身御供論』の指摘するとおり、少女たちの通過儀礼と、様々な形での対応が描かれているという見方を取るならば、決して少女性を手放しに賛美している作品ではないと言える。
 冒頭でピクニックの舞台となる山の地質学的な性質への言及がなされるけれども、それは時間的な断層から異界との接点となっていることがそれとなくほのめかされている。それはピクニックの途中で時計が止まってしまうという別の形でもあらわれている。休憩する友人たちから離れた四人の少女たちはそのような岩山のさらに奥へ高みへと登っていくのだけれど、その過程で一人は逃げ帰り、二人は行方不明になり、一人は少女たちが山奥へ分け入るのを見かけた少年マイクルによって長い探索ののちに発見されて生還する。

 マイクルが生還した少女アーマを見つけるにあたって、自分のたどった道の枝にやぶったメモをさしはさみ、それを下僕のアルバートがあらためてたどって遭難しかけていた二人を発見するという構成になっている。これは魔術的な要素が強く、常識的な山狩りなどではなく、このような形でしか少女を救うことが出来なかったことをあらわしている。映画の序盤、アルバートが口をつけたワインを勧められた際に、ややためらって服で瓶の口をぬぐってから飲んで返し、再びアルバートが口をつけてから勧められて、今度はためらいを見せたあとに直接飲み干すというシーンがはさまれていることも重要で、こうした同志的儀礼が遂行されていなかったら、おそらくマイクルはアルバートに見つけてもらうことが出来なかったのではないかと思う。アルバートは主要登場人物中でおそらくもっとも地に足の着いた生活を送っている人物だ。

 こうした中で通過儀礼によって少女時代を越えていく者と、少女性の形式を守ろうとする寄宿舎とのきしみも明らかになってくる。浮世離れした少女性を担保する寄宿舎も授業料滞納という通俗的な理由からセイラを排除しようとするのだが、その寄宿舎も失踪事件を端に退学者が続出すると、資金繰りに苦しめられるという皮肉な状態に陥る。寄宿舎の閉鎖に伴い生徒たちはまた別の寄宿舎で少女性の延長を計ろうとする一方、生還したアーマだけはヨーロッパというオーストラリアにとっての外側の世界へと旅立つことが許される。

 こうした通過儀礼の先に行ってしまって帰ってこなかったミランダと、帰ってきて世界の中に自分の立ち位置を見つけるアーマという構図はヘルツォークで言えばアギーレとフィツカラルドに擬せられるべきものであり、このような形で一作品の中で儀礼への対応を描き分けたことにこの作品の眼目がある。
 この辺りのことは『人身御供論』で詳細に論じられているのでそちらもぜひ読んでほしい。さて、あらためて大槻ケンヂ、「PICNIC AT FIRE MOUNTAIN」から「最後の遠足」へ(詩集では「最後の遠足」として一本でまとまっている)。遠足で行方不明になった子供たちは何人か違う運命をたどりながら、最終的には全員が行方を断ってしまう。

「その時から 我校の遠足は/父兄同伴が義務となった」

 ここには通過儀礼の失敗から、通過儀礼そのものが骨抜きにされてしまい、困難になっている状況への洞察がほのめかされているように思われる。1990年の大槻ケンジ(思潮社版はこの表記)『リンウッドテラスの心霊フィルム』に付されたリーフレット、大塚英志「笛吹き男のいいわけについて」は大槻ケンヂの詩における通過儀礼の性格について述べている。そして、この小文はやがて94年の『人身御供論』の議論にもつながるものだと思っているのだ(『人身御供論』収録の文章は89年から91年にかけて『アーガマ』に連載されていたという)。この映画を見たことによって25年がかりでひとつの輪がつながった。

「うさんくさい人」という印象の強かった大塚英志に対する評価を改めたのは、彼がこの大槻の詩集の中から、特に「星の夜のボート」一篇を選んで論じていたのを読んでからだった。


人身御供論―通過儀礼としての殺人 (角川文庫)
人身御供論―通過儀礼としての殺人 (角川文庫)

猫のテブクロ
猫のテブクロ
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2015年09月09日

『パレードへようこそ』マシュー・ウォーチャス監督

 1984年、サッチャー政権下のイギリスで炭鉱閉鎖に対するストライキを、同じく国に抑圧を受けているものとして支援を始めようとするレズビアンとゲイのグループを描くイギリス映画。下高井戸シネマで鑑賞。



 冒頭のシーンが鮮やかである。ゲイの活動家マークは、近頃自分たちへの警察の弾圧が緩くなっていることに気づく。なぜか、炭鉱者の労働組合への攻撃に力を注いでいるからだ、よかったよかった。よくない。自分たちの代わりに弾圧を引き受けている人々の存在に気づき、そのような一時的な無風状態にまどろむことをよしとせず、マークを中心としてゲイの青年たちは炭労への支援のために募金を集めはじめる。
 労働組合側にも彼らゲイたちのセクシュアリティに対する反発や差別があり、支援の受入れをめぐっての混乱もあるけれど、運動の過程を通じて彼らのあり方に理解を深めていく。

 群像劇としても面白く、一番の若手であるジョーが親元で暮らしながらゲイであることを隠し、授業をさぼりながら運動に身を入れるあたりの矛盾にさいなまれながら自分を確立していく姿をジョージ・マッケイが繊細に演じる様には色々なものを重ね合わせてしまった。
 ケジンという人物はゲイの専門書店の店主だけれども、こうした書店が単に書籍を売るにとどまらず具体的な運動の拠点になりうるということも、日本ではなかなか見えづらいことであるかもしれない。彼を演じたアンドリュー・スコットは先日『ジミー、野を駆ける伝説』でも見ていて、最近のイギリスの役者が分かってきたぞと嬉しくなるが、『SHERLOCK(シャーロック)』でモリアーティを演じているということで、ずいぶん有名なんだろう。
 組合の側でもビル・ナイ演じる書記のクリフは、交流を通じてゲイであることを告白し、やがて自らの芸術と政治思想と、セクシュアリティを一つのものとする隊列に出会うことになるだろう。

 音楽の使い方も興味深く、オープニングのバックにピート・シーガーによって歌われる「Solidarity Forever 」が、劇中ではカルチャー・クラブの「カーマは気まぐれ」が流れる。こうしたミュージシャンの楽曲が同一平面上にあらわれるのが、時代を切り取った映画の面白いところだろう。

 つまるところはストライキは史実のごとく敗れ、主人公たちはゲイパレードにおいて警官隊に「ストは負けたぞ」と揶揄され、味方の側のゲイの一部からも政治的なことは持ち込むなと足を引っ張られる。これは抵抗者たちの敗北を描いた映画だろうか。そうではない、ラストにおいてゲイのパレードにかつての支援に報いるために炭鉱労働者たちが連なって参加をし、先頭を歩く。そして、労働党において同性愛者の権利を明記していくことに大きな役割を果たしたのが彼ら労働組合だった。このことを見るときにストライキやデモはけっして短期的・直接的な獲得目標のみで成否を判定することは出来ないことを実感できる。闘争を通じて連帯を、他者への理解を深めていき、お互いが生きる権利を認識していくのだ。

パレードへようこそ [DVD]
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2015年08月27日

『カスパー・ハウザーの謎』ヴェルナー・ヘルツォーク監督

 アップリンクのヘルツォーク傑作選で鑑賞。『シュトロツェクの不思議な旅』のブルーノ・Sの主演ということで見ておきたい作品だった。

カスパー・ハウザーの謎 [DVD]
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 やはりブルーノ・Sは最高で、かつて彼の聖性について触れている感想なども見たが、こういうものを感じてくれる人がいるんだと思う。一方で、その源泉は彼がいつも供物のような存在であることにあり、見ているだけでも泣きそうになることがあるのだ。

 カスパー・ハウザーの謎とはいうが、本作において描かれたものは謎とそれに対応するような真実ではなく、むしろ彼が提示した謎の意味をとりこぼす世界の姿だったのではないだろうか。それは正直者の村とうそつきの村をめぐる論理学者や、彼の置かれた状況や言動をいちいち細かに正確に記述する書記といった人々とのやりとりにそれはあらわれている。なによりも彼の死体を切り刻み解剖し、臓器の構造を調べることでカスパーの謎が解けたというラストで、わたしたちの認識のありかたが強く批判されていることは明らかだろう。

 ニュルンベルクの広場にあらわれる以前のカスパーを描写したことで彼をめぐる謎が薄れたという意見もあろうが、それは言ってしまえばミステリー的興味からのものであり、ヘルツォークの主眼はおそらくそこにはない。細部の描写ではかなり実際の記録をもとにして作られているように見える本作であるが、貴族の落とし子かはたまた詐欺師かというようなレベルの「謎」についてはヘルツォークの言及は控えめなものであり、それほど重きを措いた展開を与えていない。それよりも、このよそよそしい世界に手紙と帽子、そして(理解できぬ信仰の)祈祷書のみを携えさせて一人の男を突然解き放ち、そして同じ手で再び命を奪うその主体がはっきりと同一のものであることがこの映画においては重要だったはずだ。
 一度目の襲撃のあとに「事件とは関係ないが」と前置きしつつ、カスパーは山を登る人々と死神の幻視について語る。もちろん関係ないわけがないのだ。そしてこのとき、カスパーの抱える謎は普遍的なものとしてわたしたちに降りかかってくるだろう。ここにブルーノ・Sのもつ先駆的な被害者性が加わったとき、この映画は忘れえぬ傑作になった。
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posted by すける at 03:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画・演劇・ドラマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする