2014年09月06日

『息もできない』ヤン・イクチュン監督

『グラン・トリノ』の併映、というかこちらがメイン。新橋映画で『独裁者』と『死刑執行人もまた死す』を見たときの予告で流れて見ることを決めた。予告だけで見るというのは、わたしには普段あまりない行動形態。たぶん韓国映画を劇場で見るのは初めてだったはず。



 ヨニ役のキム・コッピがあまりにも素晴らしい。作品に関しては自分の人生とあまりにもダブるところがあるので動揺するところが多く、自分語りはしたくないとなるとどう語ればいいのか。ヨニが弟が持ってきた怪しい金の出所をいぶかしみ「こんなお金は欲しくない、怖い」となじるシーンなど見ていられない痛切さがあり、またサンフンがヨニに「やっぱり、いいところの娘だと思っていた」と語る完全な思い違いをヨニが訂正しない(出来ない)あたり、もう、どう見ていていいのかさっぱり分からない。

 サンフンを失った周囲の人々の反応が、外国人の目から典型的に想像される「哀号」に乗っ取ったものであることに対して、ヨニの悲しみの表現がそれとは違うことも興味深いものだった。

 問題となるラストは、目の前の蛮行から起こるフラッシュバックが過去の暴力の真実をあらためて突きつけ、失ったものもありつつ得たものもあったはずのわずかな温かい思い出さえも暗く塗りかえていくという救いのなさであり、この瞬間のヨニの表情は見なければならないものだ。貧困と暴力の連鎖と再生産にはさまれた出口のない生の中で「高校に行ってんだろ」「どうやって生きればいい?」と問うサンフンへのヨニの言葉の美しさ、あの痛み。



息もできない [DVD]
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『グラン・トリノ』クリント・イーストウッド監督

 新橋文化劇場で鑑賞。これが最後の新橋文化になった。

【初回生産限定スペシャル・パッケージ】グラン・トリノ [DVD]
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 アジア人に対する差別的な表現をするイーストウッド演じる主人公をポーランド移民という設定にしたところが巧妙というか、あれがWASPだったらアウトだったろう。 主人公はフォードの工員として勤めあげてきたが、息子たちは日本車を売っているという時代の変化のなかでグラン・トリノを古きよきアメリカの象徴にしつつ、主人公の周りに出てくるのはイタリア系の床屋やアイルランド系の建築屋、作中で明言されてたかわからないけど神父も名前から東欧系移民の子息と思われ、このあたりがちょっとねじくれてていて、アメリカというものの内実を再考させるものになっている。こうした傍流の人々こそがアメリカの価値を守ってきたのであり、そしてまた引き渡すべき相手を探しているのだと。

 途中で黒人の不良を相手に大仰な仕草で胸ポケットからライターを取り出した後に同じモーションで銃を抜き、彼らを撃退するシーンがあり、これが最後の場面の伏線になっているが、これは最終的に対峙するモン族のギャングに見せつけておいた方がよかったのではないかという気もする。
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2014年05月29日

『赤毛のアン』DVD3〜8巻 高畑勲監督

 ということで、いろいろ忙しかったのであまり本は読めず、おもに『赤毛のアン』と『じゃりン子チエ』のテレビシリーズを交互に借りて見るという生活だったのです。

赤毛のアン VOL.3 [DVD]
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 それにしても、アンとジョーシー・パイとのかけあいが面白くてしょうがない。 ジョーシー・パイは物語の中では「意地悪な女の子」という役回りなのだけれど、まったく敵対関係にあるかというとそうではなく、アンたちといっしょのグループに混じって普通に会話していたりすることもないではない。この辺り意地悪キャラと言っても『小公女セーラ』のラビニアなんかとは立ち位置が違うんだというのは大人になってから分かった気がする。

 24話でアンが屋根から落ちる原因を作ったのはジョーシーの挑発だけれど、そもそも彼女に挑発させたのはアンであるというあたりが見ている方にも分かるように描かれているのがありがたい。主人公と敵役の善悪二項の単純な対立には還元できないようになっている。

 クリスマスコンサートのエピソードでは、ともに妖精の役を演じることになったジョーシーがアンに自虐含みの皮肉を投げかけるのだけれど、ここでアンが癇癪を起さずにうまく切り返したあたりにアンの応対に幅が出てきたことがうかがえる。実際、なにかと衝突するこの二人が妖精としてセットで演技しているくだりはなかなか面白い絵面で隠れた名場面だろう。

 シャーロットタウンでの博覧会でジョーシーが出品した作品が入賞したことについて、アンがまずそれをジョーシーのために喜び、そしてジョーシーのために自分が喜べたことにあらためて喜びを感じるシーンは、アンが自分の感受性を客観的に眺めることが出来るようになったシーンとして重要なものだろう。まあ、そのあとの話でもジョーシーはアンとの同席を拒否したりするんだけどね(笑)

 また、前半に出てくる「嫌味な先生」の役回りを演じるフィリップス先生について、アンたち生徒は微妙に隔意をもっているんだけど、案外先生はアンの学業の到達について正当に評価している言葉が作品の中に注意深く込められている。マシューやマリラはさすがにそういう先生という人間の中にある振り幅について気付いていて、アンにそうした幅の中での先生の美点にも目を向けるように諭していく。このあたりの大人の描写にはホッとする。アンが(その時点では)そうした言葉に納得しないのも、まあそういうものだろう子供って。お別れでは場の空気にのまれて泣いてしまうけどね。

 こうした、必ずしも気の合わない人たちともなんとか付き合っていく一方で、親友であるダイアナとのある種の別れが描かれるのが34話。アンとダイアナはたまにささいな誤解から口論をして仲直りしたりということをしていたが、これはそういう水準ではない本質的なもの。
 進学をめぐる課外授業の参加について、アンはダイアナが悩んでいる理由について気づくことができない。アンは想像力という言葉を繰り返して使うけれども、ある意味でものすごく鈍感な子だということは押さえておいた方がいい。どれほど仲が良い子供たちも成長すればそれぞれの能力や関心の赴くところ向かう道は違ってくる。マリラに自分本位の身勝手な考えを叱責されたアンはふたたびダイアナと仲直りをする。ただ、お互いが違う人間なのだと認めてしまったあとで、それはいままでのように一心同体というものではどうしてもないだろう。

 ただ、かつてのようではないにしても、お互いの違いがあると認めて、その違いを踏まえたうえで新しい関係性を織りなおすこともまた出来るのだ。今回見たエピソード分、親友とのまた対立的な人物と重ねたさまざまな情景から、アンの人間関係の幅が大きく広がっており、彼女の成長が実感できる。時間の経過は主にナレーション部分で説明されるが、たしかにそれだけの時が過ぎて、グリーンゲイブルズでの少女の時はたしかに静止しているわけではないのだと、わずかな痛みをともないつつ感じることができるのだった。

赤毛のアン VOL.8 [DVD]
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タグ:高畑勲
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posted by すける at 18:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画・演劇・ドラマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする