2017年01月30日

『1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代』柳澤健

 パックインミュージックには間に合わなかった世代なのだ。ラジオ聞くようになった小学校高学年のころにはすでに終わってた。ナチ・チャコは文化放送の夕方の番組で聞いていて、「この二人は深夜にTBSでやっていたんだ」と親に聞かされて、そうだったのかというくらい。わたしのころには深夜と言えばオールナイトニッポンが、絶頂期というと上の世代に怒られそうではあるが、二部に伊集院光があらわれたころである。ニッポン放送の圧勝という感じであり、TBSが互角に張っていた時期というのは感覚的にはピンと来なかった、そんな時期。
  しかしながら、先日馬場こずえについてちょっと調べたところから遡行する興味で、パックインのDJの中でも名前の挙がることの多い林美雄について読んでみた。

1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代

 冒頭の視点は林ではなくリスナーたち、そして彼らが林の『パックインミュージック』が終了することを知ることから始まる。最後のプログラムがあらかじめ明示されている構成である。入社後の描写では、まず若手アナウンサーが任されたという『朝のひととき』で、林が同期の宮内鎮雄を「お前の選曲には捨て曲がない」と批判したというくだりは面白い。その後人気DJとなる強烈な自負心がほの見える。林は入社前には池袋の喫茶店でDJのバイトをやっていたというのだが、そんなバイトが一喫茶店で成立するというのがなんというか余裕があった時代だという感じである。

 パックイン本体に関しては伝説レベルのデビュー直後のユーミン関連のエピソードが当然多く取り上げられてるんだけど、山崎ハコ登場時の話なんかもあって、そのときに「橋向こうの家」とかも歌ってるんだとか。ああ、それは聞きたい。

パックインがやはりメインなのでその後のことはサラッと触れられているだけだけど、林美雄が編成として関わった『スーパーギャング』で、月曜に起用した景山民夫には期待かけてたんではないかとわたしは推測していて、しかし特に立証できるような材料はないので直感でしかないのだけれど。
 ここで冒頭部分が聞ける『スーパーギャング』オープニング曲だった、景山の歌う「やつらを喋りたおせ」は、シャレの雰囲気をまとわせながらも、冒頭の「Speak out!」連呼になにがしかの深夜放送という、フリースピーチのメディア、カウンターカルチャーの残り香を感じてしまうのは、わたしの個人的な迷妄であってもいいのだが。林も景山も体を張った「闘争」には間に合わなかったり狭間にいた世代という引け目を引きずっていたという指摘はありうるのかもしれない。

 『パックインミュージック』は『オールナイトニッポン』に押され、ビートたけしにとどめを刺されたというのが一般的な結論になるのは妥当だろうが、林美雄に関しては本書にさらっと書いてある「サブカルチャーの水先案内人である以上、常に新しい若者文化を知っておかなければならない。林美雄は少女漫画やアニメーションを扱おうとしたが、最初から最後までうまくいかなかった」というあたりが後々のことも考えると大きいことでないだろうか。『パックインミュージック』において、これまで映画や音楽の方面でつねに新しい感性を発掘してきたが、キャリアの長くなりつつあった林と、新陳代謝で更新されてきた若いリスナーとの感性の齟齬がはじめて顕在化するのが『宇宙戦艦ヤマト』の劇場版であるというのは、いろいろ示唆的であり、カウンターカルチャー、サブカルチャー、オタクカルチャーという文脈のある断絶を身をもってあらわしているようだ。

 苦い話もあるのだが、深夜放送のDJを通じて様々な映画を知り、DJとリスナーとのつながりを越えてリスナー同士が「深夜映画を見る会」を作り、やがてリスナーの共同体が出来ていくさまはラジオの、深夜放送の「媒介」としての機能を見せてくれる。それはサマークリスマスなどのいくつかの祭りを経て緩やかにほどけていくのだが、それが通過儀礼を経るということのはずだ。深夜放送がこのような役割を果たせた時代にいた人たちのことを、少しうらやましく思う。そして、コミューンは決して消えたわけでもないようだよ。
荻大ノート

もう一つの別の広場―深夜放送にみる青春群像 (1969年)
もう一つの別の広場―深夜放送にみる青春群像 (1969年)
タグ:ラジオ
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posted by すける at 23:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月13日

『挑戦者たち』法月綸太郎

 本格ミステリの華と言えば「読者への挑戦」はその一つだろう。作者と読者が一つの条件下において挑戦するものとされるものとして対決するというジャンルのゲーム性を顕かにあらわすこの要素のみを抽出して、法月綸太郎は99のアプローチをやってのけた。


挑戦者たち
挑戦者たち

 わたしが最初に「読者への挑戦」に触れたのははっきりとは思いだせないが、栗本薫の『鬼面の研究』あたりだったはずだ。「本格」の意匠を借用しながらジャンルへの批評をおこなうという意思はあの作品にもあったと思うが、ともあれやや衒いもふくめた様式美への愛着というものをあのとき見せられたのだ。

「97 不完全な真空」でレーモン・クノー『文体練習』が引き合いに出され、章題はむろんレムの『完全な真空』を想起させることからも分かるように、本書では文体の模倣や過去の様々な作品のパロディを駆使した「読者への挑戦」があらわれる。巻末の引用・参考文献もなかなかの威容だが、参照されている作品はこれだけに収まっているわけではないのだ。次々と繰り出される軽妙なパスティーシュに笑い転げているうちに、切り出された形で提示された「読者への挑戦」から、「読者への挑戦」のミステリにおける意味、あるいは逆に「読者への挑戦」からミステリ総体をとらえかえす機縁もあるかもしれない。「46 分類マニア」「51 これより先、無法地帯」「73 天地無用」といった章はそうした可能性をあらわしている。
 また、個別の作品でどうこうというタイプの文章では必ずしもないのだけれど、ノックスの十戒とマザー・グースの合わせ技の「十戒」などは独立した作品としても見事にまとまっている。

 装丁も凝っており、価格の設定からすると非常に趣味的な度合いの高い本であるが、著者の不可解なまでの力の入りように感嘆せざるをえない、今年の読書家への贈り物といってよい傑作だろう。
タグ:法月綸太郎
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posted by すける at 03:32 | Comment(0) | TrackBack(1) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月16日

『いちばんここに似合う人』ミランダ・ジュライ

 キノベス一位にTwitter文学賞獲得した短編集、どちらかというとわたしの読書範囲のメインストリームではなくアンテナには届いてこないタイプの小説だけど面白かった。

いちばんここに似合う人 (新潮クレスト・ブックス)
いちばんここに似合う人 (新潮クレスト・ブックス)

 ミランダ・ジュライの幼少期は、岸本佐知子氏の訳者あとがきによると、ニューエイジ系の出版社を営む両親の周囲に「かなり境界例っぽい大人たち」の出入りする環境だったというが、作品にもそうした雰囲気は影響しており、そうした社会人にはなりきれない人物たちが、それでもなにかしら社会の周縁部のそれなりに組織化されたグループに関わりながら人生を送っている姿を見られることは非常に楽しかった。
 一般的な人生のルートからは外れているが、しかしだからといって極端に劇的な人生を送るというわけでもなく、案外凡庸な悩みを解消できぬまま人とつながってみたり、やがて急激にあるいは緩やかにそうしたつながりもほどかれていくことを確認していくことになる。
「あなたは? かけ直したい?/もしきみがそうしてほしいのなら/でももし私がそうしてほしくないなら、電話しなくてもかまわないということ?」というあたりの会話のどうしようもなさの普遍性には頭を抱えたくなる人も多いだろう。

 個人的には「その人」「十の本当のこと」「水泳チーム」を推したい。
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posted by すける at 02:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする