2016年06月11日

『センター18』 ウィリアム・ピーター・ブラッティ

 ついにブラッティ〈信仰の神秘〉三部作の第二作'The Ninth Configuration’の邦訳が刊行。『エクソシスト』と『エクソシスト3』の原作である'Legion’に比べると、紹介されている限りでは題材が地味に思われたため翻訳は難しいのではないかと思っていただけに嬉しい誤算だった。

センター18
センター18

 読む前の予想では『エクソシスト』を補完するか、逆に一部『エクソシスト』をひっくり返す議論になっているのではないかと思っていたのだけれど、超自然的な現象は表面上では起こっていないにしても、これはやはり『エクソシスト』とテーマを補い合う作品だった。
 『エクソシスト』が信仰と人文科学的な懐疑主義とのあいだの緊張を描いていたとするならば、『センター18』が向かい合っているのはエントロピーやビッグバンを基にした宇宙論とアポロが月に降り立つ状況だ。これは『エクソシスト』のホームパーティの場面で、招待されたアポロ計画の宇宙飛行士に悪魔に憑かれた少女リーガンが「宇宙に行けば死ぬぞ」という悪態をつく場面から直接落ちてきている。センター18に収容されている元宇宙飛行士のカットショーは、終盤に月で一人きりで死ぬことになったならばという孤独への恐怖を打ち明ける。そのことへの答もまた本書を『エクソシスト』と貫くものになっているのだ。

『エクソシスト』でも本書でも(自己)犠牲には非常に大きな意味が与えられており、途中までの議論の筋道にはおおむね賛同できるとして、最後の飛躍は無神論者には承服しかねるところもあるのだけれど、まさにそれゆえにわたしにとってブラッティは強い緊張感を感じることができる作家になっている。ここまで来たからには是非'Legion’も訳してほしいものだ。

最後に本書を原作とした映画『トゥインクル・トゥインクル・キラー・カーン』への伊藤計劃氏のブログの記事へリンクを張っておこう(http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20051118/p2)。本書のオリジナルとなった作品に'Twinkle, Twinkle, "Killer" Kane'があり、それを改稿したものが本書'The Ninth Configuration’、このタイトルで映画化もされたのだが'Twinkle, Twinkle, "Killer" Kane'名義で公開されたこともあるようで邦題ではこちらが生き残った上で、ややミスリードを狙ったかのように固有名詞が本来のケインではなくカーンになっている。今となってはちょっとどうかと思うけれど。なお、現在アマゾンで見られる本国版のジャケットは、作品本来のテーマを直接反映したようなものになっているので一見の価値があるだろう。

The Ninth Configuration

トゥインクル・トゥインクル・キラー・カーン [DVD]
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エクソシスト (創元推理文庫)
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タグ:ブラッティ
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2016年05月04日

『二階の住人とその時代 転形期のサブカルチャー私史』大塚英志

 スタジオジブリのフリーペーパー『熱風』に連載されていた『二階の住人とその時代』については一度触れたことがあるけれど、書籍としてまとめられたのであらためて。

二階の住人とその時代 転形期のサブカルチャー私史 (星海社新書)
二階の住人とその時代 転形期のサブカルチャー私史 (星海社新書)

 大塚が『リュウ』の編集に参加することから横目で眺めることになる『アニメージュ』周辺の雰囲気を語るにあたって初期編集スタッフである尾形英夫と鈴木敏夫の出自として『アサヒ芸能』から始めて、さらに徳間康快を媒介に真善美社にいたる流れはよい。『アニメージュ』=アニメ誌というトートロジー的な切り出し方からは出てこない系譜をたどることが出来るのは非常に大きい。
『アサヒ芸能』に関しては竹中労『ルポ・ライター事始』の記述に接続される必要もあるだろう。竹中は60年当時の副編集長生出寿について触れながら『アサヒ芸能』の方針についてこのように述べる。「エロティシズムと赤旗と、すなわち俗流大衆路線の衣をまといつつ反体制・反権力、異端の思想を煽動すること」
 この文章が書かれた81年ごろの竹中の『アサヒ芸能』評価はもはやストリート・ジャーナリズムの志を失っているというものであるが尾形英夫は『アサヒ芸能』に関わるのが61年ごろで、竹中が「一九五九〜六一年にかけて私は彼(生出)と共働してストリート・ジャーナリズムの一典型をつくった」という時期にかかる。大塚の『アニメージュ』を語るには一見奇妙に見える書き出しに応えて、このような奇妙な補足をしておきたい。真善美社の線からは花田清輝のアヴァンギャルド芸術や総合芸術についても引っ張ることが出来そうな気もするが、これは今回置いておこう。

 こうした一般に「アニメ誌」としてン認識されている雑誌のアニメ以外の側面について「『サブカルチャーを軸としたクラスマガジン』としての側面は最終的には『アニメージュ』によって具体化していく」や「『ニュータイプ』は当初、『ボーイズライフ』をイメージしたサブカルチャー誌として構想され、アニメーションはその特集の一つに過ぎなかった」というあたりの本書での記述は、芦田豊雄さんが亡くなった時のトークショーでの元『OUT』編集長大徳哲雄さんの「経営面から考えて、『OUT』をサブカル誌からアニメ誌へ切り替えた…」と言いかけて、「サブカルという言い方はイヤで、カウンターカルチャーと言いたい」という言葉と重ねてみると面白い。わたしはやはり『アニメージュ』を切って『OUT』を選んだ人間なのでしばしば記述を『OUT』に引き寄せて考えてしまうのだけれど、創刊からしばらくの『アニメージュ』を『キネマ旬報』と『ロードショー』的路線の混在と見て、『OUT』を『映画芸術』に大塚が喩えるというあたりの機微もまた面白い。

 また『アニメージュ』創刊にあたっても深くかかわったということで浪花愛さんへの言及もけっこう多かったが、「小さな世界観の中でファンタジーを描くと不思議な才能があることに気づいて」オリジナルの作品を描いてもらったが「その才能をうまく引き出すことはできなかった」というあたりのちょっとモヤモヤした、文章が興味深い。大徳さんもトークで「すごく人気があったけど、ぼくにはよく分からなかった」ということ言っていたのでなかったか。否定的な言及ではなく、作家性の本質をつかみそこねたのではというひっかかりがどこかにあるような。「小さな世界観」というのはたしかにキモで、たとえば「シャア猫」というのがなにか切実なものを表現しているのだろうとは思いながら、なぜ「シャア猫」?というのが子供のころには分からず大人になったら分かるだろうかと思っていたら、いまでもよく分からなかったりするのだ。
 その浪花さんについてもテレビアニメの各話のスタッフロールから演出や作画の傾向の相関性を見取りはじめる世代の一人としての描写があり、これは以前書いたふくやまけいこさんや五味洋子さんと同じ感性というか批評性である。(http://sukeru.seesaa.net/article/386108446.html
 この他、この世代に共通するリスト・データベース作りへの執着によって支えられた批評性の形成や、正面玄関のハードルは高いが交友関係を通じて通用口・裏口はゆるゆるである(アニメとは違うがこうした事情はわたしもよく分かる)当時の出版業界の状況から徳間書店の二階の住人たちが集まりはじめるという梁山泊的状況のスケッチは、大塚英志の当事者であるがゆえの錯誤も込みだというのを前提にしながら読むとやはり面白い。本書ではさらりと名前が出てくるだけだが同時代にはアニドウやゼネプロというまた別の若者たちの場所もあったのだということにも目配せをしておきたい。

『リュウ』についての言及は案外少ないのだが、『幻魔大戦』(『リュウ』版)の打ち切り通告を石森章太郎に行ったのが大塚だというのは、ひとつの転機として象徴的だろう。また、これまで書いてきたような表現の系譜の中にアニメーションの位置づけを示してきた本書が「日本のサブカルチャーは確かに何かの寓話であり続けてきたけれど、しかしそれを寓話として受けとめる足場を」失ってしまったと指摘するときに、この断絶があらためてどのような歴史に接続されようとしているのか、ということを考えさせられてしまうのだ。



あの旗を撃て!―『アニメージュ』血風録
あの旗を撃て!―『アニメージュ』血風録

決定版ルポライター事始 (ちくま文庫)
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posted by すける at 23:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月23日

『怪帝ナポレオン三世 第二帝政全史』鹿島茂

 先日の『芸術と策謀のパリ―ナポレオン三世時代の怪しい男たち』からの流れでナポレオン三世ものを。サン・シモン主義の影響による産業振興と、帝政の力の根拠があくまで選挙にあったことあたりをばっと見る第二帝政の概説としてはまずまず。

怪帝ナポレオン三世 第二帝政全史 (講談社学術文庫)
怪帝ナポレオン三世 第二帝政全史 (講談社学術文庫)

 オスマンプランによるパリ改造や百貨店、鉄道等の第二帝政下の産業振興についてはよく知られているが、これを支えるものとしてクレディ・モビリエというサン・シモン主義者のペレール兄弟により設立された動的な金融機関を支援して保守的な金融機関に対抗させたとか、関税の引き下げで自由貿易を推進したとか、経済政策面で有機的に手を打っているのは個別の分野だけでなくまとめて読むとよく感じられる。クレディ・モビリエについては守旧派のオート・バンクもその拡大を無視できず、同分野に参入して金融戦争が起こり、最終的にはペレール兄弟の退場をまねくが、これによって生じた金融上の変化は以前の時代に戻ることはなかったということがより重要だろう。

 また、ゾラの『大地』は個人的な視点から読むと農家の遺産争いをめぐるいざこざの物語ということになるが、共同体から見ると第二帝政下で農産物の自由化にともって村内の選挙を通じて権力構造が転化していくという姿を追えるという面白味がある。このような視点は経済状勢の変化が政治の地図を変えていくという流れの読みを支えてくれるだろう。

 内政面では、混乱してる時期には相手にイニシアチブを渡せばミスを犯しそうだと思えば積極的に手渡しするという方針を採用出来るタイプで、第二共和政化では議員辞職して六月蜂起の弾圧に関わらずに済ませたり、普通選挙の制限に大統領としては反対というポーズを見せながら議会に押し切られるという姿を印象付けるあたりの巧妙さが目立つ。これが1851年のクーデターのときに利いて、国民議会を守るためにバリケードに立つという民衆がいなくなる。自分たちの選挙権を制限したり、大砲を打ち込んできたのは第二共和政の議員たちで、そんなもののために身を張る人間はいない。この振る舞いはタイミングが違うが第三共和政下のパリ・コミューンでも再現していると言えるだろう。ナポレオン三世の時代とは六月蜂起以後・パリ・コミューン以前と区分できる気もする。
 蜂起する民衆と共和政との一致が決定的に崩れたのは六月蜂起の弾圧によってであり、このことが第二帝政の力の源泉のひとつであったのだ。また注意深く見るべきは、第二帝政下の解体後、ブルボン派であれオルレアン派であれフランスにおいて王政は復活していないことで、帝政は崩れても第二復古王政はなかったということだ。ここでは歴史は繰り返さなかったのであり、20年ほどの期間に第二帝政は思いのほか王党派の力を削いでいたことが推測される。これもまた以前の時代に戻ることのない一線を引いたと見ることも出来るだろう。

 一方では戦争は驚くほど下手で、物資と人員の配置が滅茶苦茶というのは、一般的に成功と見られているクリミア戦争のころから一貫しているようだ。ある時期までは相手も同等の下手を打ってお付き合いしてくれたが、イタリア統一への介入で対立したオーストリアとの紛争を横目で見ていたプロシアに、普墺戦争、普仏戦争と各個撃破されることになる。普墺戦争も普仏戦争もプロシアの優れたロジスティックスが決めた要素が強い。産業面では近代化に向けてサン・シモン主義者を中心にまずまずの人材登用をしてきたナポレオン三世だが、軍事面ではまったく人を得なかった。これは元来の基盤の不安定さも大きく影響したのだろう。

 ゾラ『獲物の分け前』では舞台として温室がクローズアップされていたのだけれど、パリ中央市場の当初想定された要塞風の外観を嫌ったナポレオン三世がガラス張りの温室風の建築を採用したというの聞くと、これは第二帝政風の建造物を直接反映していたんだなと分かる。

 疑問点としては評価が低いとされるナポレオン三世の復権のための筆が過ぎてひいきの引き倒しになっている部分があり、これは歴史的記述としては不要という部分もある。「ナポレオン三世が労働運動の父である」炭鉱ストライキに軍隊を送り込むにいたった状況からは無理があるだろう。視野を広げるためにはこの概説で満足するのではなく、個別の分野のより広範な立場からなる史料を逍遥しておきたい。

タグ:第二帝政
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posted by すける at 22:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする