2017年09月29日

『外来種のウソ・ホントを科学する』ケン・トムソン

 原題は'Where Do Camels Belong?'ということで、ラクダはどこに属するか?という問いである。ネットにおける発言では、外来種の生物についての言説など、科学的議論を前提にした装いで、実は非常に情緒的だったり実証性の低い(あるいは存在しない)発言が少なからずあったと思っているのだけれど、他の分野でなら「エビデンスは?」と揶揄含みに批判されるようなこうした傾向は、しかし様々な理由から積極的に検証されることなくに放置されていたのではないか。その意味で本書のタイトルには興味を引かれるものがあった。

外来種のウソ・ホントを科学する
外来種のウソ・ホントを科学する

 まずは十一章「侵入にまつわる五つの神話」で指摘される五項目に目次からでも目を通すのが良いのではないだろうか。「外来種による侵入が生物多様性を損ない、生態系の機能を失わせる」「外来種はわたしたちに多額の損害を与える」「悪いのはいつも外来種」「外来種はわたしたちを狙って野をうろついている」「外来種は悪者、在来種はいい者」

 こうした、わたしたちが日常の感覚で程度の差はあれ無前提に受け入れているような「神話」が本書ではデータによって検証されることになる。


第二章「在来性のわずかな歴史」によれば、外来種の危険性についての議論はチャールズ・エルトン'The Ecology of Invasions by Animals and Plants'(1958 邦題『侵略の生態学』)が転機となる。これは「思いつく限りの環境への害悪の原因を何であれ導入生物に帰そうとする伝統」にのっとった上で、エルトンが経験した二つの世界大戦から、生物の行動をあまりにも直接的に戦争とのアナロジーを用いて説明していることに注目するべきだろう。エルトンの世界像は静止した不変不動の動植物相というものであり、それはダーウィン以前のものであるとトムソンは指摘する。

 そのうえで、第三章と四章に分けて、とりわけ悪名高い外来種四種、ミナミオオガシラ、カワホトギスガイ、ギョリュウ、エゾミハギといった生物について行われる一般的な非難と、その実態について本書は取り上げていく。これらの生物が起こしているという被害に確たる因果関係が認められないことが多いのだ。なお公平を期すためには、むろんミナミオオガシラの項も読むべきだろう。別の章ではあるが、映画などで知られたナイルパーチをめぐる環境破壊についても、固有の外来種が引き起こしたというよりは、人間の関わり方の方により大きな問題が潜んでいることが指摘される。

 さらに在来種と外来種の判別も非常に恣意的である傾向が示され、自分たちに気持ちよく見えるものは「在来種」として扱うことがあり、またこれは反転すればある事情で不都合が生じればかつての「在来種」を「外来種」であるということにして駆除の正当性を述べ立てるというようなことが起こることが、第五章「いいものなら在来種に違いない」で論じられていく。

 本書では外来種への特効薬的な対策が大量の予算を投下したあげくに事態を悪化させたり、額に見合わないような成果しか出せない事例が多く紹介され、なかなかすぐに問題解決というわけにはいかず明るい気分になるものではないが、薄い湿地帯に根を張ったセイヨウトゲアザミを根絶から共生の方針に切り替えて野の花とのパッチワーク化に一定の成果をあげた事例や、数十年単位で見た場合には在来種と外来種のバランスが取れていく過程の可能性など希望の持てる展望も語られている。

 十一章において著者は、「研究者は価値中立的に用いる『外来種』という用語だが、不用意に使われると政治的な、あるいは道徳的な、悩ましい反応を引き起こすし、無邪気な先住種至上主義も、うっかりすると、外国人アレルギーのような感情を触発しかねない」と指摘する。さらに終章において、トムソンは「生態学は科学だ。イデオロギーではない。そして、自然とか健康とかいう概念は価値を伴い主観的なものである。生態学は、他の犠牲のうえに、ある自然像をよいものと決めて推進する権威になるべきではない」と述べる。価値判断をするなというわけでは必ずしもないが「価値の判断は科学の領域の外だ」と。
 外来生物に関わる議論についてはこのように価値中立的だったはずの用語が、不適切なレベルに拡大されて政治的な議論のアナロジーに使われてしまうことになりかねない。それが二章においてトムソンの説が俎上にあげられた理由でもあろう。無自覚に排外主義的なアナロジーにつながるような「価値」の導入や、無前提な「自然環境保護」に対して距離をおいているため、本書はおそらく否定的な反応を呼び起こすことも間違いないのだが、あらかじめ予想される批判のようには必ずしも外来生物への対策を否定しているわけでもない。ただ、環境変化の正確な原因や、環境に与えている負荷の正負を含めた正しいデータを参照した上で、恣意的な価値観を物差しにすることを控えるべきだという最低限の主張がある。これだけのことが、難しいことかもしれないが、スタート地点はそこであるべきだろう。

「世間一般の妄想をたきつけるには、ことさらに嘘をつくまでもない。ただ脅威となる侵入的外来種による恐るべき実話がたしかにいくつかはあると認めさえすればいい」

侵略の生態学 (1971年)
侵略の生態学 (1971年)
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posted by すける at 23:13 | Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月22日

『新感染 ファイナル・エクスプレス』ヨン・サンホ監督

 日本公開まではずいぶんかかったゾンビ映画見てきました。邦題含め、日本でのプロモーションにはいろいろありますが、ここでは触れません。



 落ち着いた美人で妊婦役のチョン・ユミは類型的な「足手まとい」キャラを演じさせられるのかなという登場時の予想を裏切って、最初のパニックシーンからペットボトルと新聞紙を使う迅速な対応でゾンビの追撃を切る、というところで一つ感心。この辺りで映画を信用しました。
 走るゾンビには懐疑的な方だったのですが、これは納得。元気いっぱいに集団疾走してくるシーンには思わず笑いを誘われるところもありますが、驚かせ方はなかなかのものです。列車内での横移動と駅構内での立てに落ちてくるゾンビといった見せ方の工夫もよく考えてあります。

 ゾンビ映画の裏テーマでもある社会描写については、追い詰められた状況での人間同士の分裂や不信、足の引っ張り合いという非常に普遍性の高い描写とともに、韓国固有の情勢を反映したものだろうなというものもあり、これがエンタメを見る際の興味深いところです。列車が向かう方向として不可避的にソウルから釜山という目的地は決められているのですが、なんらかの緊急事態が発生した時、ほとんどの韓国国民にとっては南へと向かうことはほぼ避けられないところでしょう。この撤退の方向がもたらす緊迫感はとりわけ現地の観客にとって生々しさがあるはずです。そしてこれは作品内の描写からは離れる水準の事柄ですが、付け加えるならば、日本の観客にとっては釜山の先には日本があるなというところでもあります。

 また観客の怒りを一身に集める船舶、じゃなかったバス会社の常務は予備知識なしに見ても韓国の人が見れば想起せざるを得ないモデルがいると考えられますし、その推測はすでにいくつか出されていますが、それはとりあえず措き、モデルとなった韓国での具体的な事故/映画作品『新感染』内部での描写/普遍的な水準での利己主義批判といった層がひとつに織り込まれて表現としてあると見ることができます。

 こうした悪役によって体現された悪の形に隠れていますが、このゾンビ事件の背景には、コン・ユ演じるファンドマネージャーの主人公ソグのファンドマネージャーとしての没倫理的な業務が関わっていたことが終盤に明かされるというシーンも重要です。金融資本の走狗として振る舞うソグに対する庶民の反感をマ・ドンソク演じるサンファが明言しており、そうしたソグの「吸血鬼」性もやはり世界を滅ぼす手助けをしていたということが突きつけられるわけです。
 ソグは、日常描写の段階での「一般投資家?そんなもの気にしてる場合か」という業務上の台詞に示される人生観がパニック後も当然行動に反映されていて、そこが(母親から人格的な涵養を受けている)娘とぶつかったりするんだけど、この利己的な振る舞いをパニックの中のある明確な線で跳び越えたのか、グラデーションで移行していったのかというのは気になります。はっきりしているのは列車の中に戻ったところから、下手をうったホームレスを、これまでの行動基準なら見捨ててもいいところで助けるところでしょうか。
 そして、ソグの部下であるキム代理、電話を切った後にどれだけ時間が残っていたのか分からないのだけれど、彼にも人間性を回復する戦いがあったのではとも。

 あと、見せ場はテーピング。もうあのシーン、ほんとうかっこいいですね。最後は『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』を見せ球に使いながら締めてくる。この水準の映画はたくさん見ていきたいところです。

新感染 ファイナル・エクスプレス (竹書房文庫)
新感染 ファイナル・エクスプレス (竹書房文庫)
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posted by すける at 16:43 | Comment(0) | 映画・演劇・ドラマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月06日

『裏世界ピクニック』宮澤伊織

TLにちらほら流れてくる話では都市伝説の『ストーカー』な連作短編集だという評判の作品を、すこし遅れて読む。

裏世界ピクニック ふたりの怪異探検ファイル (ハヤカワ文庫JA)

 扱われている都市伝説は、「くねくね」「八尺様」「きさらぎ駅」等で、基本的にネットの掲示板等で広まった話になっている。おそらく同一空間と想定される〈裏世界〉に存在するこれらの怪異に二人の少女のコンビがそれぞれの動機で立ち向かっていくという筋立てだ。なるほど〈裏世界〉は『ストーカー』における〈ゾーン〉であり、とりわけ第二話の「八尺様サバイバル」に登場する先行者の肋戸の行動はタルコフスキー版『ストーカー』の身振りを直接思い起こさせてくれるものである。危険極まりない「ピクニック」とはストルガツキー兄弟による原題である『路傍のピクニック』から参照されていることは明らかだ。また、そこでの探索での収穫物は、帰ってきた世界で換金することも出来るようになっている。

 少女二人については「眼の女の子」と「手の女の子」という、わたしのキャラクターについての雑な認識の仕方があきらかな紹介の仕方をしてしまうが。このことによって〈裏世界〉での役割分担が決まり、それゆえにお互いを必要とするという設定になっている。

 第四話「時間、空間、おっさん」は書き下ろしということで、連作を単行本にまとめるにあたって、作品世界のいまだ判然とはせぬ深層を少しだけ推測させる形になっている。恐怖は定式化できるものであり、であるならば操作可能なものであり、また人間において突出した感情である。ここで人間は、(ある意味では積極的に)「恐怖させられる」ことで、なにかを見つけてしまうのだ。定式化ということに着目するならば、構造の方が重要ということもあるはずで、そう考えれば都市伝説が同行異曲、あるいはバリエーションを多く生み出すことにも必然性があると言えるかもしれない。
 こうした恐怖の実体に近づくことは、恐怖を打ち砕くためには必要なことでありつつ、ある限界を超えれば恐怖そのものに取り込まれることになるので、これはSAN値概念やあるいは『恐怖新聞』などと言ってもいいか、ギリギリの綱渡りが要求されることになるだろう。

 いまだ少女の動機は解消されていないし、その間にも未解決になっているままの事件もあったりと、まだ物語は完結していない。すでに後続する短編も発表されており、ふたたび一冊にまとまることが楽しみなシリーズである。

ストーカー (ハヤカワ文庫 SF 504)
ストーカー (ハヤカワ文庫 SF 504)

ストーカー [DVD]
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posted by すける at 09:28 | Comment(0) | SF | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする