2019年02月03日

『ブラマタリの供物』フーゴ・ハル

 これまで、創土社のアンソロジーでクトゥルフ関連のゲームブックを発表してきたフーゴ・ハルが、ついに長編での作品を発表。タイトル自体は2013年ごろには聞いていたと思うので、待たされたけれどもそれだけの甲斐はある作品だ。



 導入は1928年、ロックフェラーの係累の青年がアフリカで行方を絶ったことことから、救出に指名された刑事、マロウンを主人公として行われることになる。

 本書の特徴は狂気度の管理で、ページは進むほどに右上に記された値は増加していき、それによって危険なマップを利用することになったり、数値判定でジャンプ先を強制されたりという弊害が起きるようになっている。面白いのは、この数値を記録するために、カバー袖を当該のページに挟むように指示されることで、進んでいないページは簡易な封印を施されているという形になる。
 物語を進めるためには閉じられた封を破る必要があるが、それは同時に狂気へと落ちる可能性も示しているというジレンマ、知ることへの禁忌を非常に物理的に表していて、いろいろなアプローチの仕方があるものだと思わされる。本を傷めてくないのでしおりで代用するというような形だと、この雰囲気を十全に味わうことは難しいので、ここはぜひ使い倒すつもりでカバーをそのまま使ってみてほしいところだ。
 なお、このような形だと、とうぜん、進行している狂気度よりも手前のセクションを選んでプレイしたくなるが、そこは消極的なプレイばかりしていると、後ろの方に飛ばされる指示が出てきたりするので、勇気も必要になってくる。

 狂気度が進んだマップでは主人公の自己認識や言動も怪しくなってきており、判定にクリアしても周囲の人物に軽率な行動を押しとどめられたからという感じになってきていて、危険な状態になる。とはいえ、それ故に重要な情報もあるためやはり踏み込まなければならないのだ。
 中盤に入る手前くらいで重要な情報源が与えられるが、これはセクションの番地が大きく、狂気を上げることが確実なので、この知識にいつアクセスするかという決断は進めるうえでの一つのカギになる。同時にそれぞれのマップには回復ポイントも用意されているので、ここを把握できれば、行動の自由度はかなり増すだろう。

 こうした、冒険を重ねていくことで、事件のおおよその姿が見えてくる。ジャングルの中で見たいくつもの奇妙な死体が、ある戒律に基づいて罰を受けていたらしいことが分かってくる。この辺りからは怒涛の展開というべきで、数学・音楽等が示す世界のビジョンにさらされながら、ついに邪神の顕現に立ち会わねばならなくなってくる。終盤のパラグラフジャンプも特徴的で、重要な部分では数字による指示は少なくなっており、言葉をカギにして辿りつく必要がある。そして諧調の支配する世界に対して、小さな楽器が抗議する……。

 謎の歯応えかなりのものだが、そこから受け取ることの出来るものは圧倒的で、これは大作と言われるべき作品だ。なおミスカトニック大学特別研究員という肩書の岡和田晃の解説は、本書の背景を分かりやすくまとめているが、しかしなお、この文章も作品の狂気にとらわれているのだ。これから読む人にはなんとか脱出していただきたい。




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posted by すける at 18:46 | Comment(0) | ゲームブック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月23日

『陋巷に在り』酒見賢一

 我ながら分かりやすいとは思いつつ、結局『雷子』を起点に春秋時代に回って『論語』を写すという展開から『陋巷に在り』をちと読み始める。『墨攻』しか読んでなかったころは酒見賢一についてけっこう手堅いイメージを抱いていたのだけれど、『泣き虫弱虫諸葛孔明』の史料の扱い方はかなり自在なものがあったので、歴史小説には普段あまり心が動かない方なのだけれど続けて。




 本書については呪術大戦だというような評も多いんだけど、1巻のクライマックスは顔回が父親の代わりに下級の士の葬礼を取り仕切るところではないだろうか。
 それにしても孔子は原始的な儒礼が技術として形骸化するとことからの革新を図る人物として描かれているけれど、さてそれ自体の頽落はと問われるのはまだ早いだろうか。エンタメでの天真爛漫な儒教批判については『史記』について書いたときに触れていて、こういう時に儒家を主人公としたエンターテイメントは解毒剤としても価値があるかもしれない。

 小説本編でも書かれていたように、『論語』も対話篇で、Aにはx、Bにはy、両方の問答を聞いたCが言ってること違いませんかと聞いて、「相手によって変えたんだよ」という謎解きをするという親切なエピソードを入れてくれてるのは、これちゃんと手の内見せたから油断するなよということであって、xのまま、あるいはyのままに投げ出されたテキストもある可能性が示されているとすれば、その答えを引き出したのはAだったのかBだったのか、別の誰かだったのかという問いはありうるだろう。
 ここに孔子の弟子がそれぞれ『史記』において伝を立てられることの意味もあるというものであり、そこから本書の主人公、顔回が作家の空想を経て立ち上がってくるということでもある。最後まで楽しみに読んでいきたい。


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posted by すける at 02:15 | Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月12日

『史記列伝』司馬遷

『雷子 紺碧の章』から始まる春秋戦国時代への関心で『史記』を読み返すかと書棚を見る。岩波文庫の『史記列伝』が飛び飛びなのは、引っ越しで散逸したのではなく、そもそも興味ある巻しか買ってなかったからだった。楚漢の争いと、「刺客列伝」「遊侠列伝」を含んだ巻があるから、どうもそんな買い方だった気がする。趣味的読書の限界感。というわけで欠けていた一巻と四巻を購入する。


 巻頭の「伯夷列伝」が決定的だ。司馬遷は、徳を修めながら餓死に追い込まれた伯夷叔斉について「天が善人に対する報いとは、いったいどんなことなのか」と嘆きつつ、「もしかすると天道と言われるものがただしいのか、ただしくないのか」という決定的な疑問を投げるに至る。
 『史記』もテキストクリティークは複雑らしく、必ずしも原本において「伯夷列伝」が列伝の巻頭にあったかを確認するのは難しいという話もあるようだけれど、やはりこれは誰が見ても決定的に司馬遷が自分自身のことを語っていて、『史記』全体を通貫する視点だろう。しかし「もしかしたら」とは恐ろしい言葉だ。

 ここから「老子・韓非列伝」で説難篇をかなり長く引用する意図も明らかになるだろう。人の世にあって徳操を保った伯夷がその酬いに餓死し、権力者の前であやつる言葉の困難さを十分に知悉していた韓非子が横死を避けられなかった時にむき出しになる天と人との裂け目のあいだに歴史記述があらわれる。これは紀伝体の形式を取るしかない。編年体に再構成したら思想が死んでしまう。

 それにしても一巻は孫子や伍子胥を外せば、秦を中心としつつそれにあらがう周辺の諸国という絵が、最終的には秦にまとまっていくという流れが見える巻である。縦横家の弁論や、戦国四君(平原君は「フフフ…奴は四天王の中でも最弱…」が似合う男……」)といった多彩な人物を交えつつ、商鞅以後の法家的改革を採用した秦の軍事力の拡大を、何度かチャンスはありつつも止めることが出来ないというあたりにドラマがあります。合従による対秦統一戦線は、それを支える根拠が秦の強大さによるものだというジレンマのため、どこかで崩れてしまう。

 とはいえ、最近はエンタメでも左右問わず割と法家を現実主義として称揚する一方でカジュアルに儒教批判というのが採用されてる印象があり、『蒼天航路』なんかでも、ある程度両義的に描かれてはいても究極排除の対象感。まあ、あれは曹操視点なのだけれど、読者が無点検で同化するものかというと疑問はある。
 商鞅の法家的改革のあと、曲折はあれ群雄割拠する戦国時代で優位をキープし続けた秦が、しかし統一後から帝国成立15年、法に追いつめられた農民の衝動的な反乱を端緒に瓦解するというところ、法家が法の恣意的な行使を止める論理を最終的に内在化できないところで法匪を生むような時、倫理はとりあえず外部から借りるしかないのではないのかと。
 李斯が同門だった韓非子を陥れるために用いた「法律を度をこえて適用し誅されますのが第一でございます」という言葉が、法家による国家のただなかで吐かれたことが韓非子の列伝の中に記されていることの意味は、物語の中で都合よく区切られるよりも射程が長いだろう。

 また四巻では、李広や衛青以上に、匈奴、南越、東越、朝鮮、西南夷列伝あたりがありがたく、とりわけ「西南夷列伝」が三国志的な興味でも結構面白い。夷扱いされていた時期に漢に目をつけられたのがクコの実の醤がきっかけとか、バクトリアと蜀の商人の交流が見られるという示唆とかから、最終的にこの地が益州としてまとめられるというあたり、商人の往来が盛んであるという「三都賦」につながっていく蜀の風俗描写にもずいぶん落とし込める気がするし、中原からの辺境という蜀の地が、あんがい国境を越えた商人の往来の盛んな地域であったということが読み取れるのだ。



タグ:春秋時代
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posted by すける at 17:28 | Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする