2019年01月12日

『史記列伝』司馬遷

『雷子 紺碧の章』から始まる春秋戦国時代への関心で『史記』を読み返すかと書棚を見る。岩波文庫の『史記列伝』が飛び飛びなのは、引っ越しで散逸したのではなく、そもそも興味ある巻しか買ってなかったからだった。楚漢の争いと、「刺客列伝」「遊侠列伝」を含んだ巻があるから、どうもそんな買い方だった気がする。趣味的読書の限界感。というわけで欠けていた一巻と四巻を購入する。


 巻頭の「伯夷列伝」が決定的だ。司馬遷は、徳を修めながら餓死に追い込まれた伯夷叔斉について「天が善人に対する報いとは、いったいどんなことなのか」と嘆きつつ、「もしかすると天道と言われるものがただしいのか、ただしくないのか」という決定的な疑問を投げるに至る。
 『史記』もテキストクリティークは複雑らしく、必ずしも原本において「伯夷列伝」が列伝の巻頭にあったかを確認するのは難しいという話もあるようだけれど、やはりこれは誰が見ても決定的に司馬遷が自分自身のことを語っていて、『史記』全体を通貫する視点だろう。しかし「もしかしたら」とは恐ろしい言葉だ。

 ここから「老子・韓非列伝」で説難篇をかなり長く引用する意図も明らかになるだろう。人の世にあって徳操を保った伯夷がその酬いに餓死し、権力者の前であやつる言葉の困難さを十分に知悉していた韓非子が横死を避けられなかった時にむき出しになる天と人との裂け目のあいだに歴史記述があらわれる。これは紀伝体の形式を取るしかない。編年体に再構成したら思想が死んでしまう。

 それにしても一巻は孫子や伍子胥を外せば、秦を中心としつつそれにあらがう周辺の諸国という絵が、最終的には秦にまとまっていくという流れが見える巻である。縦横家の弁論や、戦国四君(平原君は「フフフ…奴は四天王の中でも最弱…」が似合う男……」)といった多彩な人物を交えつつ、商鞅以後の法家的改革を採用した秦の軍事力の拡大を、何度かチャンスはありつつも止めることが出来ないというあたりにドラマがあります。合従による対秦統一戦線は、それを支える根拠が秦の強大さによるものだというジレンマのため、どこかで崩れてしまう。

 とはいえ、最近はエンタメでも左右問わず割と法家を現実主義として称揚する一方でカジュアルに儒教批判というのが採用されてる印象があり、『蒼天航路』なんかでも、ある程度両義的に描かれてはいても究極排除の対象感。まあ、あれは曹操視点なのだけれど、読者が無点検で同化するものかというと疑問はある。
 商鞅の法家的改革のあと、曲折はあれ群雄割拠する戦国時代で優位をキープし続けた秦が、しかし統一後から帝国成立15年、法に追いつめられた農民の衝動的な反乱を端緒に瓦解するというところ、法家が法の恣意的な行使を止める論理を最終的に内在化できないところで法匪を生むような時、倫理はとりあえず外部から借りるしかないのではないのかと。
 李斯が同門だった韓非子を陥れるために用いた「法律を度をこえて適用し誅されますのが第一でございます」という言葉が、法家による国家のただなかで吐かれたことが韓非子の列伝の中に記されていることの意味は、物語の中で都合よく区切られるよりも射程が長いだろう。

 また四巻では、李広や衛青以上に、匈奴、南越、東越、朝鮮、西南夷列伝あたりがありがたく、とりわけ「西南夷列伝」が三国志的な興味でも結構面白い。夷扱いされていた時期に漢に目をつけられたのがクコの実の醤がきっかけとか、バクトリアと蜀の商人の交流が見られるという示唆とかから、最終的にこの地が益州としてまとめられるというあたり、商人の往来が盛んであるという「三都賦」につながっていく蜀の風俗描写にもずいぶん落とし込める気がするし、中原からの辺境という蜀の地が、あんがい国境を越えた商人の往来の盛んな地域であったということが読み取れるのだ。



タグ:春秋時代
web拍手 by FC2
posted by すける at 17:28 | Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月18日

『呉越春秋 呉越興亡の歴史物語』趙曄

『雷子 紺碧の章』からの流れで呉越の話である。信頼の東洋文庫。なお、初訳である本書の刊行はゲームの制作よりもあとで、もう少し早く出してくれていればという声も。


 構成としては呉の巻と越の巻に分かれており、これだけだと均質なように見えるけれども、目次を見ると違いも明らかであり、呉の巻がわりと各世代の王に伝を割り振っていることに対して、越の巻は勾践の各時代に伝が立っているという不均衡なつくりだ。こういうところには著者の狙いを感じるべきだろう。
 それにしても伯嚭は闔閭伝においては、孫武・伍子胥とほぼ同格の功臣扱いで、三本柱と言ってもいいくらい。佞臣として扱われるのは夫差伝から。考えてみると、闔閭は元楚人の亡命者である伍子胥・伯嚭を政治の枢要に置き、軍事にはその伍子胥が推挙した孫武を用いて、大きな混乱を招かず、存命中はまずうまく乗り切ったのだから優れた人物だといえるだろう。

 勾践という人物は、エピソードレベルの知識で、逆境から再起した人物として単純にとらえていたのだけれど、不遇に耐える動機が決して個人的な水準を超えず、普遍的なレベルに還元されることがないので、なかなかとっつきづらい人物であった。范蠡の勾践評「患難を共にすることはできるが、楽しみを共にすることはできない」というのは、言いえて妙というものだろう。
 この辺り、闔閭を成功させた後に身を引きそこなった伍子胥と、所期の目的が達せられたところで、これ以上の諫言は勾践に届かないと見るや姿を消した范蠡、あるいは夫差伝からは姿すら見えない孫武のような人物との対比が鮮明になる。功績をあげた臣下の出処進退のあり方は、中国史において、春秋の後でもテーマになり続けることを私たちは知っている。
 あるいは、伍子胥と同じような立場に置かれることになった文種のもとに、死後の伍子胥があらわれる怪異譚のような語り口が、歴史の状況下における人物の対比と同列化という側面を見せてくれるのだ。

 訳者の佐藤武敏氏は、楚の占卜の訳出にあたり非常に歯応えがあった旨、解説で書いているが、ほかに闔閭伝でも城郭を築く際に風水的思考を取り入れていると思われる描写が1ページ近く続くなど、アプローチの仕方で非常に面白いものが切り出せそうである。
 また、解説では、陳橋駅による「夫差は春秋最後の覇者であり、勾践は戦国最初の雄者である」という、越の中央集権化と歴史全体の流れを統合した指摘も紹介されており、晋の分裂から趙韓魏の成立に基礎を置く一般的な春秋戦国時代の区分とは少し異なっていると思うが、聞いておくべき意見だろう。

 あ、呉を責める準備をしている途中で唐突に「森で生まれ野で育った剣の達人の少女」が出てきて、越の兵士に剣術を指導するなんてエンタメな展開がでてくるけど、これを題材にして金庸が「越女剣」という短編を書いていて、ずいぶん前だけど、ムーン・リー主演で映像化されているらしい。 金庸、今まで読んだことなかったのだけれど、読んでみようかな。

タグ:春秋時代
web拍手 by FC2
posted by すける at 01:30 | Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月11日

『雷子 紺碧の章』クロン

 三国時代を扱った前作『雷子』に続いて、春秋時代主に呉越の抗争を描いた伝奇SLGの第二弾です。わたしは春秋時代は大まかな流れと各エピソードがあまり頭の中で整合されてないのだけれど、このあたりを起源とする故事成語が多いことは分かります。漢文の素養が途切れてしまったという側面はありますが、日本人の教養の礎の一つでしょう。

臥薪嘗胆
死者に鞭打つ
呉越同舟
あるいは「時に范蠡無きにしも非ず」といったような。

 こうした言葉の元になったエピソードがどのように伝奇的な処理をなされたか興味深いところです。ということで、またふりーむからのDLで申し訳ない。


 導入は楚の人伍子胥から、いきなり亡命のシーンなので、ここは歴史を知らないとやや面食らうかも。呉に食い込むなり暗殺を含む不穏な策をめぐらせて、地盤を固めていきます。とにかく感情の量の多い人ですが、なんだかんだで闔閭との関係は安定しているんだよなぁ。とはいえ前作からのプレイだと、いや史実的にもハッピーエンドは期待できない人です。
 天才軍師孫武(孫子)をも迎えた呉は、楚を追い詰め、戦乱に乗じて攻めてきた越をも撃つという形で情勢としてはピークを迎えるところで、ほころびも生じ始めるのが呉編の終わり。越編も勾践が主役というよりは、歯車が狂い始めた伍子胥といっていいでしょう。
 気になるのは干将・莫耶の話に眉間尺を絡めてきたところ。『呉越春秋』では呉王と優れた鍛冶屋の話だけで、復讐譚では設定が呉ではなく楚王の話になるのが一般的なようだけれど、最近の春秋ものの語りではどんなまとめ方がスタンダードなんだろう。呉越での干将・莫耶の話に眉間尺を絡めてきた。『呉越春秋』では呉王と優れた鍛冶屋の話だけで、復讐譚では設定が呉ではなく楚王の話になるのが一般的っぽいけど、最近の春秋ものの語りではどんなまとめ方がスタンダードなんだろ。
 もっとも、この作品では「みけんじゃく」は知られているエピソードとはずいぶん存在のあり方が違うので、決着のつけ方は違うものになるのだろう。雷子では陽剣莫耶も手元に残ったので、これは第四部で黄天化が持つとか?

 最終の紺編は孫武の晩年が定かでないことと孫臏の生まれがはっきりしていないことの合わせ技で、これは読める範囲内だけれど、龐涓が出てきた時点で絶望します。鬼谷子が呉編から登場してたのはこう拾うためかと。この孫臏と龐涓の話に「友達同志」というタイトルをつける佐藤春夫も相当なものだと思います。

 越編は伝奇面でのラストが、歴史改変的な側面の強いほうに傾いていた感がありますが、紺編では、呉編の冒頭に名前だけ出てきただけかと思わせた人物を回収したうえで、あえて物語からはじき出された人物に「この歴史」をつなぐことが託されるという作り方で、全般的に主要人物に救いがないことを補う形になっているのが注目されます。

 個人的には「合わせる顔がない」と顔を布で覆って自死してから、とぼとぼ冥府を歩いてる夫差の、その布を奪って顔を見にくる伍子胥みたいなのをエピローグとかで見てみたかったり、エンディングは超人的な主要キャラを離れた一般人が、船に乗っていて嵐にあう話とかが欲しかったりしましたがそれは私的な要望に過ぎず、スケールの大きなほら話を次につないだ見事な構成にまずは舌を巻くべきでしょう。

 SLGの側面では、当初必殺技がなかった孫武が解放されると、十三篇の孫子に屋上屋とでもいうか、中二だぁという技が炸裂してテンションが上がります。あと、最終ステージのラスボス戦は沈尹戌の必殺技が相性いいですね。あ、この沈尹戌の「狼牙」、ダメージを累積させるには鬼谷子のケアが必須と言えますが、この辺ちゃんとストーリーと連動してるのが地味によくできてるんですよね。SLGのシステムと切り離されてない。

 うーん、鄭問の『東周英雄伝』を読みたくなってきた。復刊しないかな。気が付いてみると春秋戦国に題材を得たエンターテイメントも少し目立ち始めている感じもあり、何とかならないでしょうか。あと、雷子は完結させてください。











タグ:雷子
web拍手 by FC2
posted by すける at 19:05 | Comment(0) | ゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする