2016年12月02日

『ゴッド・ガン』バリントン・J・ベイリー

『シティ5からの脱出』以来、日本オリジナルの編集で二冊目のベイリーの短編集が出たぞ、すばらしい。 もともとは『神銃』にゴッド・ガンとルビを振るという予定もあったようだけれど『禅銃』とまぎらわしいという理由でこの形になったとか。うーん、それで並べてみるのもかっこいいと思うんだけどな。ともあれ、最愛のSF作家ベイリーの短編が読めるのだから、もう嬉しいことこの上ない。


ゴッド・ガン (ハヤカワ文庫 SF ヘ)
ゴッド・ガン (ハヤカワ文庫 SF ヘ)

 本書の解説では、ベイリーの描く科学者像について、ムアコックの「十八世紀の自然哲学者に近い」という言葉が紹介されているが、個人的にはベイリーのある種の作品における登場人物の会話って、近代文学の登場人物の会話じゃなくて、ソクラテス前後のソフィストたちを含めた自然哲学者たちが世界をいかに捉えるかを語り合った、その対話みたいなところがあるよなとあらためて思ったり。とくにエレアのゼノンが提示した四つのパラドックスの思考法は結構直接的に影響があるんじゃないだろうかと思っている。
 イギリスの作家リース・ヒューズはベイリーが亡くなった後に寄せた文章で、「ベイリーはパルプ雑誌のボルヘス、スペースオペラのゼノン(Bayley was a pulp Borges, a space opera Zeno)」と表現している。ベイリーを評するにあたって「SF界のボルヘス」という言葉はよく聞くが、「スペースオペラのゼノン」もまた、ベイリーの特質を直接伝えているだろう。

 作品で言えば『シティ5からの脱出』に収録されている「宇宙の探求」の最後の議論で主人公が持ち出す「ものはそれ自体と同一である」という命題に対し、チェス人が返す「ものは運動し、運動は自己同一性にわずかなぼやけを起こす」「(主人公の)原理が絶対的な法則として通用するのは、運動の不可能な宇宙においてのことにすぎない」というくだりのやりとりは、ゼノンの第三の逆理として知られる「飛矢静止」の思考だろう。『ゴッド・ガン』収録作では「地底潜艦〈インタースティス〉」で見られる、地底を進む無限運動(に近いもの)は「競技場」をベースとした「二分割」のパラドックスが着想の淵源のひとつとなっているという気がする。厳密には違うけれど。

 作品をセレクトした大森望によると〈船篇〉としていくつかの作品が割り振られているということらしく、短編に直接「船」と関わるものが冠されているだけでも「地底潜艦〈インタースティス〉」「空間の海に帆をかける船」「死の船」「災厄の船」と並んでいる。むろん船というのは旅というモチーフのなかで多くの文学作品で何度も使われてきたものではあるが、船は海という空間と人間とをつなぐ点であり、そしてベイリーの作品において「空間」とは、しばしばわたしたちの日常性の延長での把握とは違う形で考察されるものだ。だからこそその空間に対応する「船」が必要になるのだと言えるだろう。ファンタジーである「災厄の船」はやや性格が違うが、他の三篇の「船」がいずれも通常の空間とは違う形での移動を為していることを見ておきたい。

 それにしても、この年になって表題作を読むと、「神を殺す銃」という壮大なハッタリを楽しむと同時に「ぼくは会計係として、ロドリックは(いかにも彼らしい才能の浪費だが)地元テレビ工場に勤める設計技師として。両者ともに、さしずめ知的ディレッタントというところか」というくだりから、なんとはなしにほろ苦い感情を想起させられたりもする。また「邪悪の種子」では、登場人物が乗るヨットにルディ・ドゥチュケの名がつけられているのだけれど、ドゥチュケとか久しぶりに名前を聞いたな。こういうところのベイリーのセンスってひねくれている。
 奇想でもって彩られた作品群に、異星生命の性愛を軸にしたライフサイクルと、その外側に惑星をめぐる大きな環境の転変の可能性もほのめかされるあたり、ちょっと「愛はさだめ、さだめは死」を想起させる「蟹は試してみなきゃいけない」が、ちょっと違う味わいを与えてくれたり、この短編集はベイリーファンにとっての素晴らしい贈り物になった。願わくは、いまだ未訳のいくつかの長編も日本で紹介が進むようにと。




ゼノン 4つの逆理―アキレスはなぜ亀に追いつけないか
ゼノン 4つの逆理―アキレスはなぜ亀に追いつけないか
タグ:ベイリー
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2016年11月17日

『カムパネルラ』山田正紀

『銀河鉄道の夜』が改稿によってバージョンに大きく違いがあることは知識としてあったが、本書ではその不安定さをめぐって闘争が行われている。巻頭の宮沢賢治についての注釈はよく読んでおこう。自分がいる世界と主人公の世界との関りが見えてくるはずだ。

カムパネルラ (創元日本SF叢書)
カムパネルラ (創元日本SF叢書)

 本書は直接的には『銀河鉄道の夜』をめぐる謎を扱っているものだけれど、「マッカーサーを射った男」あたりを起点にしつつ『ミステリ・オペラ』に至る、山田正紀歴史修正(への抵抗)ものの系譜としても読める。やはり最近の呪師霊太郎の短編集である『屍人の時代』に歴史修正主義的な欲望と対峙することを期待していたのだが、それはむしろこちらの方で叶えられたかもしれない。また連載時の構想では黙忌一郎ものとなる構想があったようだけれども、たしかにこの作品には『ファイナル・オペラ』とも共振しているところがあるように思える。ともあれスターシステムを使わずとも主題的な形で世界が折り重なることができるのが山田正紀の強さであるのはここのところとりわけ感じることができるのだ。

 語りにも仕掛けとなっている部分があり、主人公である「ぼく」とジョバンニの関係はあいまいながらも一応は等号で結ばれ、物語は「ぼく」の一人称で続くのだが、ある時点でジョバンニは三人称視点から「ジョバンニ」として描写されることになる。おそらく264ぺーじあたりに起点があり、269ページではっきりと確認できるように書いてある。この仕掛けを通じて逆襲はなされるので、この変化には気づいておきたいところだ。

 帯ではジョバンニがカムパネルラを殺したことを疑わせるようなセリフがややセンセーショナルに示されている。この疑いが本書の中でどのように扱われるかは直接読んで確かめてほしいが、これは、別役実が「ジョバンニがザネリを川に突き落とした」ことがあってしかるべき事件だった(が無かった)と述べていることと合わせて読めばより豊穣になるはずのことだろう。別役説を取ればジョバンニは間接的にカムパネルラを殺し、カムパネルラはザネリを溺死から救うことで間接的にジョバンニを殺人の罪から救っている。考えてみれば星の授業のシーン、ジョバンニが教師の質問に答えられない状況を見て、カムパネルラも特に説明もせず彼には答えられるはずの答えを黙っているところから、カムパネルラが示す救援のありかたは解釈が必要な迂遠な回路を通っている。彼の救い方とはそういうものなのだ。そして杉井ギサブロー・別役実版の映画では授業の場面でのカムパネルラのふるまいに解釈を示すのはザネリである。そのうえで、カムパネルラとは誰なのかという問いがあらためて立ち上がってくるのだ。



 ラストはダクトの中を潜り抜けるという初期作品から山田作品に反復されるイメージを経由して、閉塞した空間からのわずかな抵抗が啓かれる。その試みは成功したのだろうか。読後、書棚から『銀河鉄道の夜』を取り出し、この形で自分の手元にあることの意味を感じたくなるはずだ。

銀河鉄道の夜 他十四篇 (岩波文庫 緑76-3)
銀河鉄道の夜 他十四篇 (岩波文庫 緑76-3)

イーハトーボゆき軽便鉄道 (白水uブックス)
イーハトーボゆき軽便鉄道 (白水uブックス)

ファイナル・オペラ (ミステリ・ワールド)
ファイナル・オペラ (ミステリ・ワールド)

屍人の時代 (ハルキ文庫 や 2-29)
屍人の時代 (ハルキ文庫 や 2-29)

銀河鉄道の夜 [DVD]
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2016年09月14日

『ゲームブックの楽しみ方』安田均

 安田均氏によるゲームブックについての論考。

ゲームブックの楽しみ方―ファイティング・ファンタジー (現代教養文庫)
ゲームブックの楽しみ方―ファイティング・ファンタジー (現代教養文庫)

 タイトルに楽しみ方とはあるが、ゲームブックとはそもそも楽しいものではないか。ゲームブックの熱心な読者なら、そのことは前提としてあるはずだ。では、楽しみ方とはゲームブックをいまだ経験していない未読者に向けられたものだろうかというと、それだけではなく、ゲームブックの面白さの根拠がどこにあるのかということを経験者にもあらためて明らかにすることが本書の眼目だろう。

 ゲームブックの最大の特徴と言ってよい分岐というシステムに関して、未読者に説明されるときにはしばしば「右に行くか左に行くかを選ぶ」「選んだ先で結果が違う」という形で説明されることが多い。それは間違いではないのだけれど、しかしゲームブックの提示する選択はそのようなものに終わらないことを著者は説明する。
 イアン・リビングストンの初期の代表作『死のワナの地下迷宮』に触れた第五章「死のワナの選択肢」では、最初の大きな分岐において、一見右か左か以上の情報が無いように見えながら、先行者の足跡の数がその後の展開のヒントになっていることが指摘される。逆に言うと、書き手はあのような描写をした以上、そこから得られる推論から極端に外れる展開はさせてはいけない。それは意外性とは言わない。
 これはかつて創土社で開催されていたゲームノベルコンテストで、編集から「執筆に関するアドバイス」として提示された文章とも関わることだ。ここで提示されている「情景描写を手抜きしない」「意味のない分岐を作らない」「読み手に思考する余地のない選択はなるべく作らない」というアドバイスを別個のものとして読まず、ひとつのものとして扱うことがゲームブックを書く際の強力なヒントとなるだろう。
 一方、読者の側は作者からこのように描写に落とし込まれた意図を読むことが「楽しみ」となってくる。それは右か左かの行き当たりばったりな賭けとは違う水準のものだろう。やや話がそれるがゲームブックではナンセンスものは難しいという文章を以前読んだ気がする。基本的に作者と読者がセンス(意味)を共有することで、選択肢周辺の記述を読むことが可能になるので、その前提をひっくり返して選択と結果が合致しないタイプの作品は、ゲームとしてはストレスが多くなるかとはたしかに思う。ダメだという話ではなく、難しいという話なので、そのハードルを越えれば傑作は当然ありえるけれど。

 さて分岐に関して話を広げると、「ゲームブックの基本構造」というページを眺めると、特に分岐の合流で示される図が面白い。
 ゲームブックが分岐形式を取るときでも、まったく分岐させたままで進行させるということはまず無くて、常にひとつの大きな幹に回収しながら分岐と収束のブロックを積み上げてくというのが一般的だと思う。二者択一の分岐を各パラグラフの末尾につけてまったく合流させず、バッドエンドによる中断も含まない場合、累乗になるので九回選んでいるうちに、総パラグラフはゲームブックの基準である400をあっさり超えてしまう。これはあまり実際には採用されないやり方だろう。読者は読み進めていくにつれ、常に分岐で枝分かれしていく世界を目の前に提示されるのだけれど、実際には物語を収束させる強い力が働いているのだ。
 なお分岐のみの世界像でチャートを作ることも出来ないではなく、合流しているパラグラフを、分岐の別々の端にあると書くことも可能だろう。ほとんど攻略の役には立たないが、全体像が見えないプレイ途中ではこのように書くしかないというのも間違いない。
 ともあれゲームブックにおいては「分岐」が強調されがちなのだが、どう分岐させるかと同時に、どう収束させるかも作品の成否を決める重要な要素だろう。これは本書でもスティーブ・ジャクソン『火吹き山の魔法使い』を扱った第二章の「ストーリーとパズルの分岐点」においてストーリー進行の概念図を提示していることから感じ取ることが出来る。この簡略な図は、巻末に付された詳細なフローチャートと突き合わせることでより興味深いものになるだろう。基本的な分岐と合流の構造の上にジャクソンがどのような肉付けを行ったかが分かりやすくなるからだ。どのようにリスクとリターンを具体的な形で分岐構造の上に割り振り、それを大きな幹に回収し直したうえで次の分岐につなぐのかというテクニックをここから読み取ることが可能になってくる。

「ゲームブック」の中で魔法はどのようなシステムと相性がいいかという話ではジャクスンによる『バルサスの要塞』と『ソーサリー』四部作が対比して「ジャクソンの選んだ魔法」「ソーサリー・マジック!」の章で論じられており、これも非常に興味深い内容になっている。
 バルサスとソーサリーの、それぞれの魔法の役割の違いが作品全体の内容と対応するようになっていると指摘されており、わたしは個人的には魔法を「不思議なもの、制御のむずかしいもの」として扱い、選択後に起こるさまざまな出来事そのものへの叙述の比重が高いバルサスの魔法に惹かれるのだが、四部作を経験する過程で、プレイヤーの習熟度により魔法の選択の精度が上がり成長していくように構成されたソーサリーの魔法の特徴について、各巻ごとの選択肢の成否とその内容に分けて示した表などを見ると、直感的にプレイしているだけでは分からなかったことも一目瞭然となり、感嘆させられる。

 一方ではここで1990年に書かれたことから前進しているような状況もある。TBSラジオの『文化系トークラジオ Life』2016年08月28日放送分、「ポケモンGOのその先へ〜これからの『遊び』を考える」の「外伝」として公開されている音声ではゲームブックが言及されているのだが、ここでは『火吹き山の魔法使い』『シャーロック・ホームズ 10の怪事件』『ドルアーガの塔』三部作などの古典的名作の名前が挙がるとともに2013年刊行の『超時間の闇』に収録された山本弘「超時間の檻」についても触れられ「ループものとしてトライアル・アンド・エラーを繰り返す内容がゲームブックという形式にあっていて、今この時代に書くゲームブックとしてよく出来ている」と評価されている。
 バッドエンドを繰り返しながら読者に累積するプレイの記憶と、個別のトライでリセットされるはずの作中の主人公の記憶は、内的一貫性という点で矛盾があるのではと、本書では問題提起されている(P.39)のだけれど、そうした問題をもゲーム性そのものに組み込みながら更新していく作品があらわれるということは、ゲームブックに出来ることはまだあるのだなと意を強くするものがある。

(なお、この件に関しては、AVGのループものについて語る議論の中で『かまいたちの夜』が「ゲーム側でフラグの管理をしていない。フラグ(に相当する記憶)をプレイヤーの側に持たせる構造」であり、プレイヤー自身に記憶が蓄積されているなら,そこは別にいいじゃないという姿勢で作られたという話も考えておきたい。 「――「弟切草」「かまいたちの夜」から始まった僕らのアドベンチャーゲーム開発史(前編)」



 確認しておくと、本書であつかわれる「ゲームブック」とは基本的に「ファイティング・ファンタジー」シリーズである。なので、作品としては創元の国産ゲームブックなどの有名な作品は直接言及されることはない。けれども、スタンダードな作品群に対して向けられた視線から得られたものは、他のゲームブック作品を読む際にも適用されうるものだろう。そして何よりも本書で示されたゲームブックに関しての洞察は「ゲームブックを書くこと」にもかならず役に立つはずだ。残念ながら入手は現在難しい状態なのだが、なんとか目に触れやすい形にならないかと思う。そして本書の刊行から四半世紀、あたらしい『ゲームブックの楽しみ方』が書かれてもよいころではないかと期待するのだ。

シャムタンティの丘を越えて (Adventure game novel―ソーサリー)
シャムタンティの丘を越えて (Adventure game novel―ソーサリー)

超時間の闇 (The Cthulhu Mythos Files)
超時間の闇 (The Cthulhu Mythos Files)

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