2016年05月31日

『愛ちゃんを捜して』『ももちゃん がっちゃん』樹村みのり

 浦和の日本茶喫茶・ギャラリー『楽風』で開かれた、樹村みのりさんの「うちの猫は世界一展」に行ってきましたよ。樹村さんのアシスタントをつとめた佐々木淳子さんや夢野一子さんたちも参加して、テーマは猫。となればファンの人は樹村さんの猫マンガを集めた『愛ちゃんを捜して』を思い出すでしょうが、そちらに収録されたマンガではタイミングによりあまり描かれていなかった桃子やがちゃこをあつかったマンガをおさめた『ももちゃん がっちゃん』が同人誌として刊行されており、現時点ではイベント会場でしか買えないというのだからもちろん即買いです。


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 さらにミニ原画の販売もあり、とりあえず桃子を買ったのですが初回の訪問では品切れだった乃己子も最終日に二回目の訪問は午前中の訪問でゲット。マンガは猫もののほかにもソノラマで文庫化されていた『菜の花畑のむこうとこちら』と『カッコーの娘たち』も置いてありましたが、最終日には並んでいなかったので売り切れてしまったようです。他の人のレポートを見ると早い日では『冬の蕾』もあったようです。これは現在版元では切らしているようなので、会場にいた樹村さんに増刷されるべき本ですなどと伝えてしまうという。万一のためにと持ち込んでいた『愛ちゃんを捜して』にもサインをしてもらったりあつかましいファンですいません。
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 販売物ではなかったのですが、ジョニ・ミッチェルの肖像なども飾られており、あー、これも欲しいなぁと物欲が。それにしても、樹村さんから直接愛ちゃんや心太の思い出を聞けるとかめちゃくちゃ貴重な経験も出来てしまいました。

 新刊マンガは、まずは桃子。最初の飼い猫である乃己子とその子供たちというコミュニティがすでに形成されているところへ、あとから拾われて樹村さんの家に来た桃子の距離感が悲しいのだけれど、やがて馴染んでいく過程にホッとしてしまう。『愛ちゃんを捜して』では乃己子たちが亡くなったあとに、やってきたがちゃこはすでに大人になり性格が確立していて一対一の関係でもやはり距離感の構築が難しかったようだけれどもやがて、ということで猫との相互理解は大変なのだ。
 そして、一番印象深かったのは外猫だったクロを描いた「クロはいないよ」でした。庭にえさを食べに来るけれど警戒心は解かず、一定以上の距離を近づかせないことが、マンガの中でクロが丸い記号的な線で描かれることの根拠になっていたのだけれど、やがて年老い逃げる体力もなくなってしまったときに初めて樹村さんが抱き上げ、その瞬間にクロの具体的な像が目の前に開かれるという表現のアクセントを味わえます。

 二冊の猫マンガともに、どうしてもさまざまな猫との別れという題材は出てくるのですが、悲しみとともに再生もあるという温かさにあふれています。『ももちゃん がっちゃん』はとりあえずイベントでの販売は終わりましたが、通販での扱いなどまとまらないかなと思いますね。そして、ぜひこのようなイベントをまた開いてほしいものです。

愛ちゃんを捜して
愛ちゃんを捜して

 
タグ:樹村みのり
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posted by すける at 23:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月22日

『彼女がエスパーだったころ』宮内悠介

 百匹目の猿、スプーン曲げ、水伝、ホメオパシーなどが発想のもとになっていると思われる疑似科学を題材とした連作短編集。

彼女がエスパーだったころ
彼女がエスパーだったころ

『アメリカ最後の実験』を読んだばかりだと思っていたのだが、刊行ペースが速いなぁ。疑似科学を、とはいうもののその科学的な当否を問うことは主眼ではないことはまず確認されるべきで、そのような期待に応えるための話ではないが、しかしそのような期待を持つ人にこそ読んでほしいかもしれない。いっぽう、前著『アメリカ最後の実験』は「もはや性にも暴力にも動かされない」世界を前提にしていたが、本書では性による突破や一度去勢された暴力衝動の復活などが描かれる。さきの作品で繰り返し唱えられていた前提がどのような認識に支えられているのかを確認する意味でも非常に興味深い作品群である。暴力については「ムイシュキンの脳髄」で、性については「佛点」でとりわけ重みをもって扱われるそれらの試みの大半は結局のところ週刊誌の記事の水準の事件に解消されてしまうのだが、やはり問題はそこでは解消されない何かなのだろう。とくに「ムイシュキンの脳髄」における暴力性の復活の企図は『アメリカ最後の実験』の構想の裏側に密着しているものなので、ぜひあわせて読んでほしい。

 最後の短編「佛点」で、登場人物の多くに自炊する場面が見られたのはよかった。黄もイェゴールも遍歴を重ねた主人公も自分で料理を作るのだ。ちょっとすさんだ精神状態だったところからのリハビリだったと思うのだけれど、わたしには登場人物が自炊するシーンがあるかどうかという興味だけで小説を読んでいた時期があって、そこで面白かったのはクイーンの非シリーズ作品『ガラスの村』だったななんてことを思いだす。本当に個人的なことではあるが、自分で料理できるようになるというのはひとつの回復の基準であるなと。

 この作品が『小説現代』というザ・中間小説みたいな雑誌に掲載されたのはいい感じで、最初に本を開いた時には紙質におやっと思ったんだけど、連載の媒体や内容を考えるとけっこうマッチしているんではないかと。もっと俗っぽく読者に届くバージョンの表紙があってもとか妄想。日本SFと中間小説(という言葉がいまどれだけ通じるのかという問題もあるけど)の関係がいまよりもっと密だったと言えるような時代はあったはずで、それはけっこういいことだったんじゃないか。広い媒体に書き分けながら諸作品の底にある問題意識は一貫したものがあることが見られる宮内悠介の作品は追い続けないといけないだろう。
タグ:宮内悠介
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posted by すける at 08:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | SF | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月04日

『二階の住人とその時代 転形期のサブカルチャー私史』大塚英志

 スタジオジブリのフリーペーパー『熱風』に連載されていた『二階の住人とその時代』については一度触れたことがあるけれど、書籍としてまとめられたのであらためて。

二階の住人とその時代 転形期のサブカルチャー私史 (星海社新書)
二階の住人とその時代 転形期のサブカルチャー私史 (星海社新書)

 大塚が『リュウ』の編集に参加することから横目で眺めることになる『アニメージュ』周辺の雰囲気を語るにあたって初期編集スタッフである尾形英夫と鈴木敏夫の出自として『アサヒ芸能』から始めて、さらに徳間康快を媒介に真善美社にいたる流れはよい。『アニメージュ』=アニメ誌というトートロジー的な切り出し方からは出てこない系譜をたどることが出来るのは非常に大きい。
『アサヒ芸能』に関しては竹中労『ルポ・ライター事始』の記述に接続される必要もあるだろう。竹中は60年当時の副編集長生出寿について触れながら『アサヒ芸能』の方針についてこのように述べる。「エロティシズムと赤旗と、すなわち俗流大衆路線の衣をまといつつ反体制・反権力、異端の思想を煽動すること」
 この文章が書かれた81年ごろの竹中の『アサヒ芸能』評価はもはやストリート・ジャーナリズムの志を失っているというものであるが尾形英夫は『アサヒ芸能』に関わるのが61年ごろで、竹中が「一九五九〜六一年にかけて私は彼(生出)と共働してストリート・ジャーナリズムの一典型をつくった」という時期にかかる。大塚の『アニメージュ』を語るには一見奇妙に見える書き出しに応えて、このような奇妙な補足をしておきたい。真善美社の線からは花田清輝のアヴァンギャルド芸術や総合芸術についても引っ張ることが出来そうな気もするが、これは今回置いておこう。

 こうした一般に「アニメ誌」としてン認識されている雑誌のアニメ以外の側面について「『サブカルチャーを軸としたクラスマガジン』としての側面は最終的には『アニメージュ』によって具体化していく」や「『ニュータイプ』は当初、『ボーイズライフ』をイメージしたサブカルチャー誌として構想され、アニメーションはその特集の一つに過ぎなかった」というあたりの本書での記述は、芦田豊雄さんが亡くなった時のトークショーでの元『OUT』編集長大徳哲雄さんの「経営面から考えて、『OUT』をサブカル誌からアニメ誌へ切り替えた…」と言いかけて、「サブカルという言い方はイヤで、カウンターカルチャーと言いたい」という言葉と重ねてみると面白い。わたしはやはり『アニメージュ』を切って『OUT』を選んだ人間なのでしばしば記述を『OUT』に引き寄せて考えてしまうのだけれど、創刊からしばらくの『アニメージュ』を『キネマ旬報』と『ロードショー』的路線の混在と見て、『OUT』を『映画芸術』に大塚が喩えるというあたりの機微もまた面白い。

 また『アニメージュ』創刊にあたっても深くかかわったということで浪花愛さんへの言及もけっこう多かったが、「小さな世界観の中でファンタジーを描くと不思議な才能があることに気づいて」オリジナルの作品を描いてもらったが「その才能をうまく引き出すことはできなかった」というあたりのちょっとモヤモヤした、文章が興味深い。大徳さんもトークで「すごく人気があったけど、ぼくにはよく分からなかった」ということ言っていたのでなかったか。否定的な言及ではなく、作家性の本質をつかみそこねたのではというひっかかりがどこかにあるような。「小さな世界観」というのはたしかにキモで、たとえば「シャア猫」というのがなにか切実なものを表現しているのだろうとは思いながら、なぜ「シャア猫」?というのが子供のころには分からず大人になったら分かるだろうかと思っていたら、いまでもよく分からなかったりするのだ。
 その浪花さんについてもテレビアニメの各話のスタッフロールから演出や作画の傾向の相関性を見取りはじめる世代の一人としての描写があり、これは以前書いたふくやまけいこさんや五味洋子さんと同じ感性というか批評性である。(http://sukeru.seesaa.net/article/386108446.html
 この他、この世代に共通するリスト・データベース作りへの執着によって支えられた批評性の形成や、正面玄関のハードルは高いが交友関係を通じて通用口・裏口はゆるゆるである(アニメとは違うがこうした事情はわたしもよく分かる)当時の出版業界の状況から徳間書店の二階の住人たちが集まりはじめるという梁山泊的状況のスケッチは、大塚英志の当事者であるがゆえの錯誤も込みだというのを前提にしながら読むとやはり面白い。本書ではさらりと名前が出てくるだけだが同時代にはアニドウやゼネプロというまた別の若者たちの場所もあったのだということにも目配せをしておきたい。

『リュウ』についての言及は案外少ないのだが、『幻魔大戦』(『リュウ』版)の打ち切り通告を石森章太郎に行ったのが大塚だというのは、ひとつの転機として象徴的だろう。また、これまで書いてきたような表現の系譜の中にアニメーションの位置づけを示してきた本書が「日本のサブカルチャーは確かに何かの寓話であり続けてきたけれど、しかしそれを寓話として受けとめる足場を」失ってしまったと指摘するときに、この断絶があらためてどのような歴史に接続されようとしているのか、ということを考えさせられてしまうのだ。



あの旗を撃て!―『アニメージュ』血風録
あの旗を撃て!―『アニメージュ』血風録

決定版ルポライター事始 (ちくま文庫)
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posted by すける at 23:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする